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障害者×芸術表現=めちゃいい感じ! ではなくって。

たとえば政治、文化、福祉、経済、教育……。日々の、人それぞれの、小さなひとつひとつの暮らしと密接に関わっているはずなのに、「どうもなかなか自分事にならないなあ」シリーズがあるが、そのひとつが芸術表現ではないだろうか。

これらの言葉に共通するのは、どこか特権的で高尚な感じ、つまりとっつきにくい感じが漂っていること。一体いつからそんなふうになってしまったのかはわからないけれど、僕たちは本来、当たり前に自分事としてあるべきこれらのものを、何とかして自らの手に取り戻さなくてはならない。

昨今、「障害者」と芸術表現の親和性の高さが注目されている。

とりわけ、この国のアールブリュットやアウトサイダーアートを代表する作家は、「障害者」と名付けられた人がほとんどのようだ。

僕が主宰するNPO、スウィングにおいても、毎日およそ20名の障害者たちが、絵を描いたり詩を書いたりコラージュをしたり、どうでもいいような、どうでもよくないような、バリエーション豊かな表現を生み出し続けている。そんな景色を眺めていると、「うむ、やっぱり障害者と芸術表現は相性がいいようだ」、なんてついつい思ってしまいそうになる。

でも、違うと思う。

その親和性の高さが力強く物語っているのは、「障害者」なんてちっちゃい括りを飛び越えた、「人間」と芸術表現の親和性……いや、もっと普遍的で本質的な、切っても切れない結びつきなのではないだろうか。 つまり、障害者×芸術表現=めちゃいい感じ! ではなくって、(もちろん僕もあなたも含んだ)人間×芸術表現=めちゃいい感じ! なのだと思う。

そもそも「障害者」とは誰のことであろうか。「障害者/健常者」などとべったりラベリングし、ばっさり分断することなんてできるわけがない。「人は皆、障害者だ」なんてわかったようなことを言う気はないけれど、でも、どんなラベルを貼られようと、僕たちは皆、それぞれに異なった、それぞれに不完全な存在なのである。

それはもう悲しいくらいに、揺るぎなく。

あなたが他の誰かの表現を愛するならば、それと同時に自分自身の表現を愛するべきだ。

何も難しく考える必要はない。

だって、いつまでも、どこまでいっても、人生の主語は自分自身なのだし、「表現すること」とは即ち、あなたがあなた自身の生を生きるということなのだから。

※ このテキストは「現代 アウトサイダーアート リアルー現代美術の先にあるものー」展(共催: GYRE/一般社団法人Arts and Creative Mind)カタログより転載しました。

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