風景についての散文

今日は体調管理で油彩もスケッチも小休止。

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油彩は先日100枚を超えましたが、いまだ模索が続きます。

できること、できないこと、できるけどやらないこと、を吟味しないといけません。

題材は、日常の風景や小さな出来事_春につくしをみつけるような発見など。

その日常の風景とは、当地、日本の田舎の風景です。

過疎と高齢化の進む地域でもあり、昭和の高度経済成長期を働き盛りで過ごした世代が悠々自適に暮らす風景が多く見られます。

そして、そんな世代の一人である作家の母の視点を中心に、その風景を切り取ろうとしています。


悠々自適を謳歌する母世代、諸先輩方の多くは、畑や庭をケアする生活をしており、その風景は一種の”まほろば”、”桃源郷”のようにも映ります。

昭和の真っ只中を生きた彼らに与えられた人生のロールモデルは単純明快でした。

つまり、定年までしっかり働き、その後はリタイアして年金によって余生を過ごす、というモデル。今ではそのモデルは瓦解したものの、高度経済成長期の時代を働いた世代にとっては誰もが享受できる”素晴らしい人生”だったように、その長閑な風景を見ていると思えてきます。

しかし、そのロールモデルの瓦解と同様に、この”まほろばの風景”も永久に存続するものではないのかもしれません。

そして、それにより日本人の自然観も変化していくかもしれません。


日本人の自然観は、”花鳥風月”などの言葉によって要約することができます。

”春につくしを見つけ、鳥の声を聞く”ような暮らしは、田舎でしか体験できないものではなく、都市のど真ん中にいても感じることはできますが、様子は少し違います。

都市にあり、田舎にはない花鳥風月もあるでしょう。”風物詩”という言い方に変えれば、いろいろ思いつく出来事もあるかと思います。

過疎化し、限界集落化していく村では、その”風物詩”も消滅の憂き目に遭うのかもしれません。


”消滅”で実際、失われるものはなんなのでしょう。

ごく近い将来、日本中のあちこちで限界集落が消滅する危機に直面します。

このとき失われるものとは?

あらゆるものがデータ化できる時代になり、消滅する暮らしもいくらかはデータ化され後世に残るでしょう。

もしかしたらそのデータを利用して、いつかVR上に”まほろば”が再現されることがあるかもしれません。

それでも失われるものは、”思い出”だけではない気がします。


油彩の画風はまだまだ形にならない曖昧なかたちですが、少しずつでもいずれ、その”失われるもの”を刻んでいくのでしょうか?

それとも、”何があっても失われないもの”を描き出すことができるでしょうか?

川から砂金を掬い上げるような、できるのか、できないのか、まるで先のわからない作業は続きます。

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