デッサン#1 絵里ちゃん
アパートの反対側の端っこの部屋に住んでいた若い女の子が引っ越した。
その子は私が住む前からもうすでにそこにいて、名前を絵里ちゃんといった。
絵里ちゃんは置き配を好んだ。
私が絵里ちゃんの名前を知ることになるのも、置き配の箱にちんまりと宛名が書かれていたからであった。風に飛ばされて共用廊下をスライドしてきたアマゾンの箱を絵里ちゃんの部屋の前までこっそり運んでやったことで、私はそっと、絵里ちゃんの名前を知った。
絵里ちゃんはたまに部屋の中でひとりで歌を歌っていた。のびやかで歌手みたいなきれいな歌声だった。
絵里ちゃんはよくいろんな男を部屋に連れ込んでいた。1人目は彼氏かと思っていたら別の日はまた違う男を連れ込んでいた。真夜中に私が葉巻を吸っていると、絵里ちゃんと知らない男が部屋着で連れ立って歩いてきて、こちらに軽く会釈して部屋に入っていったこともあった。見るたび見るたび、毎回違う男を連れていた。コンビニのちいさな袋が、中に入ったおそらく冷えた何か、に張り付いている水滴でしっとりとして、中身を透けさせていた。ハーゲンダッツを買ったんだ、と思った。夜中のハーゲンダッツは良いな。
そんな絵里ちゃんが引っ越した。言葉を交わすほどの知り合いじゃないので、それは当たり前だけれど突然だった。アパートのゴミ置き場に分別されていない大量のゴミが積まれているなと思ったら、日中引越し業者がばたばたと現れて、数時間かけて荷物をトラックにつみこみ、バタバタと去っていった。私はアパートの外に路駐されたトラックと、入っていく引越し業者の男性たちと、を視認して、それから自分の部屋に入った。絵里ちゃんの姿は見かけなかった。ものが運び出されるかすかな物音だけ聞いていた。絵里ちゃんの荷物を見たら、絵里ちゃんがどんな生活をしていたかちょっとわかるような気がしたけれどそれはさすがに気が引けた。
絵里ちゃんが引っ越したあとも、玄関のドアは置き配希望のちいさなステッカーが貼られていたり、ビニール傘がお風呂の窓枠にぽつんと引っかかっていたりして、絵里ちゃんがもういないのがよくわからないくらいだった。ただ、ゴミ置き場に無造作に放り投げられた大量のゴミたちだけが、絵里ちゃんはもういませんよと示しているみたいだった。なんだかよくわからないディズニーのキャラクターの大きめなプラスチックフィギュアが袋からすこしはみ出し気味になって空を見ていた。
燃えるゴミの日になればこれらは全て回収される。絵里ちゃんの痕跡。絵里ちゃんの、アパートでの思い出。捨てていきたいような記憶。もうどうでも良いような、もしくはもうどうでも良くなりたいような、捨てたい記憶が、東京都の底なしの燃えるゴミトラックにのまれていくんだ。寂しいような気がしたけどそのゴミ置き場にあったものはすでに誰のものでもない、触ってもいけないような亡骸だった。
燃えるゴミの日前日、絵里ちゃんが引っ越してから2日後のこと、家を出ようとするとゴミ置き場に放置された絵里ちゃんのゴミたちが目に入った。頑丈そうだったふくろは無惨にも一部むりやりひっぱってやぶかれていて、何かを出した痕があった。食べ物らしきものが入っているのではと烏かなにかが期待したんだろうか?このあたりにはゴミを漁るような烏はいない。みんな大家さんと仲良くやっていて、お互いそれぞれに顔と名前が一致してるから、烏がなにかすることはない。じゃあ、連れ込まれていただれかが?
絵里ちゃんが急に引っ越したように見えたのは、私は絵里ちゃんが幸せになるためだと思っていた。本命と同棲したり結婚したり、すきな仕事に就いて転勤したり、何かいいことのためだと良いと思っていた。けれど絵里ちゃんはいろんな男とかかわりがあったから、もしかしたらストーカーとかつらい目に遭って、自分の身を守るために慌てて引っ越したのかもしれない。そしたら、絵里ちゃんを追ってきたストーカーが、絵里ちゃんが引っ越したのだとわかって、ゴミをやぶって何かを探したのかもしれない。
絵里ちゃんの痕跡を。
ストーカーは、ゴミをこんなふうにあけて、絵里ちゃんの痕跡を手に入れただろうか?
私は頭を振った。考えを振り払いたかった。こんなの妄想にすぎない。以前見た、夜遅くに絵里ちゃんの部屋をアパートの階段前で見つめ続けていたおじさんの横顔を思い出す。私に気づくやその人は気まずそうにこっちを睨んで去っていった。それ以来おじさんの姿は見ていないけど、ああいう人はきっと絵里ちゃんの周りにいくらでもいただろう。
ゴミ置き場の床には、絵里ちゃんのゴミが少し散らばっていた。0.01ミリのコンドームの真っ黒な箱と、ハーゲンダッツの抹茶味のカップがひとつ。男と連れ立って歩く絵里ちゃんを思い出した。袋を濡らして、透けて見えたハーゲンダッツ。やわらかな生地の、ジェラートピケの短い部屋着から伸びたまっすぐな細くて白い脚。ゆるいサンダルから無防備にはみ出しそうな足の指は意外とコロンとしていて、明るい水色のペディキュアがていねいに塗られていた。きっと夜しかかけないのであろう、やたらレンズが大きい黒縁の眼鏡。
コンドームの箱とハーゲンダッツの空カップだけが、私にとっての絵里ちゃんの残した印象とつながる全てだった。
ーーつづくかもね
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