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セイレーンは歌を歌う


セイレーンは歌を歌う
涙を流しながら
悲しい時つらい時寂しい時に
セイレーンは歌を歌う

セイレーンは自分のために歌を歌う
誰にも聞かせない
自分だけのための歌

かつてこの歌声は多くの人を癒し
多くの人に愛された
唯一無二の歌声であった
ただセイレーンに感情を寄せるあまり
憎しみをぶつける者も少なからずいた
もっと悪いことに
セイレーンのうちなる喜びは
承認という薬物が歪に肥大させて
セイレーンの心をことあるごと乱した
誰かに聞いてもらえる歌こそ価値があって
誰も聞いてくれない歌なんかに価値はないと
セイレーンは思いはじめていた
そのうちセイレーンのからだは硬くなり
歌うことに余計な思いが乗せられすぎた
彼女の押しつぶされた歌声は
セイレーン自身を傷つけた
誰も聞いてくれない歌を歌う私なんかに価値はないと
セイレーンは思いはじめていた
価値のない自分を消してしまいたいが
セイレーンは死ねない
人魚の命は尽きることがない
そうして長いこと海を見つめているしかないのだ

セイレーンは
人だかりの後ろの方でひっそりとこちらを見つめている漁師の姿を思い出した
ぼろぼろの若い漁師で
ひとりぼっちだった
誰からも蔑ろにされ
変なやつだと罵られ
日々の暮らしさえもままならない
ひとりぼっちの若い漁師だった
遠くからでもわかるほどの熱をもった瞳
けれど漁師は
セイレーンに自分から近づくことはなかった
かたくなに口を結び
いつも遠くから見ていた
セイレーンが歌を辞めた日
その漁師はひっそりと海に身を投げた
漁師は
セイレーンの歌声ひとつで
いのちをつないでいたのだった
それはひとつのひかりだった
何万光年先の過去の光を
地球のこの目に届けるような
そんな遥かな気持ちでセイレーンはこのひかりを感じ取った
すべてはおそかった
そしてセイレーンは
自分の歌声の意味を考える

セイレーンは自分のために歌を歌う
誰にも聞かせない
自分だけの歌

歌うことが苦しくなって
悲しみに暮れるセイレーンは
ひそかに歌に心を震わせていた漁師に思いを馳せる
会話を交わしたこともない
知り合ってすらもいない
ただすれ違い
見つめるだけの人
人がこれほどまでに歌を愛し求めるなら
セイレーンの心を癒すのもまた
自身の歌であるかもしれなかった
擦り傷に唾をつけて癒すような
ナイーブでやさしい方法で

セイレーンは自分のために歌を歌う
悲しい時つらい時寂しい時に
セイレーンは歌を歌う
今やそれは
彼女自身以外誰も耳にすることができない
人のために歌うことをやめたのだ
ただ自分を癒すそのためだけに

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