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夏祭りを祀る

最近は暑い日が続いて体が疲れてしまいますね。
本当に夏バテ一歩手前といったところです。

さて、夏の納涼といえば夏祭りです。
日本全国いろいろなところでお祭りは行われていますが、その目的は何でしょうか?
今回は”お祭り”の意義についてまとめたいと思います。

そもそもお祭りとは?

お祭りという言葉の起源は「祀る」にあり、神や霊に対する慰めや祈りが本来意味するところでした。
例えば、毎年11月23日に行われる「新嘗祭」は、五穀豊穣に感謝するお祭りとして行われています。

そのほかにも、日本各地で行われている祇園祭は、祇園神と呼ばれる厄除けの神様に、疫病退散の願いを込めて行われるものです。夏は伝染病の季節ですので、夏に行われています。

日本のお祭りのルーツは?

それでは日本のお祭りのルーツをたどってみたいと思います。
日本の最古のお祭りといえば、皆さんも中学で一度は習ったのではないでしょうか?
「天の岩戸隠れ」がお祭りの起源となります。

「天の岩戸隠れ」とは、太陽の神「天照大御神」と海の神「須佐之男命」の姉弟の物語です。
荒れくれものの須佐之男命は、悪行の限りを尽くします。
そんな弟の悪行に心を痛めた天照大御神は、現在の宮崎県高千穂町の岩戸神社にある天の岩戸と呼ばれる洞窟へ隠れてしまいました。
地上から太陽の神が消えたことで、世の中は暗く災いの多い世界となってしまいました。
天照大御神を洞窟から呼び出すために、洞窟前でお祭りを開きました。
その祭りの賑わいで、天照大御神は天の岩戸から出てくることとなりました。
この時のにぎやかなお祭りが、現在のお祭りの起源といわれています。

日本の3大祭りとその歴史

現在、日本には約1200のお祭りがあるといわれています。
その中でとても有名な3大祭りと呼ばれるのが、「京都の祇園祭」と「大阪の天神祭」、そして「東京の神田祭」です。
では、3大祭りについて、その歴史を見てみましょう。

祇園祭は前述のとおり、厄除けのためのお祭りです。「京都の祇園祭」は山車(だし)をひくお祭りですので、分類としては「曳山祭り」です。
なお「京都の祇園祭」は、869年の疫病の流行に合わせて、牛頭天王を祀ったのが始まりとされています。
※牛頭天王は、神仏習合により生まれた神で、須佐之男命の本地ともいわれます。少し脱線しますが、神仏習合について、wikipediaを引用します。

日本に仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で「仏、菩薩が仮に神の姿となった」とし、「阿弥陀如来垂迹八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生した。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられた。
江戸時代国学が流行すると、神道が優位と説かれるようになり、神道から仏教的要素を取り除くことが主張された。明治維新後には、「神仏判然令」が出されて神仏分離が行われた

Wikipedia 神仏習合

次に天神祭ですが、天神祭とは日本各地の天満宮(天神社)で行われる祭りのことです。
その中でも特に大阪天満宮で行われるものが有名です。
天神様(すなわち菅原道真)の鎮魂を目的としたお祭りで、菅原道真の命日にちなんだ縁日で、7月25日前後に行われています。

天神祭は、天暦5年(951年)に「鉾流神事」が行われたのが興りだとされています。平安時代、人間でありながら神となった最初の人物が天満宮で祀られている菅原道真公(以下『管公(かんこう)』)です。彼は学問の神様として知られていますが、学問の神様としてだけでなく、平安時代の人々のあらゆる不安や不満を凝縮した「怨霊」だと考えられていました。それは、903年に管公が亡くなって以後、天変地異が相次いだことが影響しています。当時の人々はそれを管公の怨霊のせいだと考えたのでしょう。
管公は、醍醐天皇への藤原時平の讒言(偽りの悪口)により太宰府に左遷されたため、その恨みは深いものと理解した人々は天変地異の原因を管公の怨霊と重ねたのでしょう。その管公の怨霊を慰めるために祀ったのが天満宮です。949年、大阪天満宮に鎮座されて2年後の951年、人々の信仰をあつめ病気平癒の願いをこめて「星祭(七夕祭)」が始まったとされています。その星祭が天神祭のはじまりであったことは、「鉾流神事」にその名残を見る事ができます。

大阪市中央卸売市場本場 語り継ぐ天神祭

さて、最後に神田祭についてです。
神田祭(神田明神祭)については、その起源が不詳でいつごろから何のために行われたものなのか、明確な記録は残っていないようです。
神田明神のホームページを見ると、平将門の鎮魂のための神社ではあるようですが、鎮魂祭というよりも必勝祈願といった意味合いが強いようですね。
徳川家康ゆかりのお祭りといったところではないでしょうか?

社伝によると、当社は天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。
慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

神田明神 神田明神とは?

近所のお祭りの歴史を振り返ろう

私の出身地の近く人は「氷川神社」という神社がありました。
荒川流域の河川の氾濫を治めるための神社といわれていますが、その社名に二つの説があるそうです。どちらであっても、その建立の目的に違いはありませんが、当時の人たちに思いを偲ばせることができますね。
さて、今回はお祭りについてみてきましたが、神社やお寺あってのお祭りです。
みなさんも近所のお祭りの歴史を通じて、神社やお寺に興味を持ってみてはいかがでしょうか?

氷川神社の社名は二つの説があります。
 一つは、「氷川大宮縁起」や「風土記稿」に『出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝わる』とある事から出雲の大河である斐伊川にちなむというものです。
 もう一つは、鎮座地「高鼻」は、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり古代からの湧水地で、湧き出る清冽な泉は原始の氷川祭祀の対象で、古語で霊験あらたかな泉を表す氷川が社名となったというものです。

秋草学園短期大学 氷川神社はなぜ多いのか?


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