【俗見茶話】第1回
よく真理を悟ったと豪語する者がいる。しかしこの世の中に反論することのできない真理は存在するのだろうか。ようこそ俗見茶話(ぞっけんさわ)へ。ここではタイトルの通り、真に無価値な情報を私個人の独自の視点を通してお茶と共に紹介する。
お茶の紹介
記念すべき第1回のお茶は自宅で淹れたイエローラベル。リプトン紅茶から発売されているイエローラベルはケニア産の茶葉を中心としたブレンド茶。甘みは少ないが飲みやすい印象だ。
異様に安い点と入手の容易さが、俗見茶話のコンセプトに合っていると考え、第1回のお茶として採用した。
相対主義
さて今回の話題は哲学における相対主義だ。その歴史は古く、古代ギリシアのソフィストにまで遡る。相対主義者として有名なソフィストの一人にプロタゴラスがいる。彼の「万物の尺度は人間である」という有名な一節は、相対主義の考えを最も端的に表していると言える。彼の言葉を噛み砕いて説明すると、物事の判断基準は人間の主観であって、絶対的判断基準は無く、人間に共通の認識は無いという意味だ。例えばコップに水が半分入っていたとして、それを多いと感じるか少ないと感じるかは人それぞれであるということだ。
この説明では本来の発想の起こりから少々飛躍してしまうため、もう少し踏み込んで書いてみよう。相対主義は原義的には、自身の経験や文化の要素がその他の要素と相互依存関係にあるとする考え方だ。同じくコップの話で例えるならば、コップの水が多いとするのは、それよりも少ない状態が存在するから想定されるのである。この前提に立てば、他の要素に依存しない絶対的に多い水の量というのは存在しないと言える。
より広く言えば、人間はバイアス無く命題を理解することは不可能であり、どんな価値基準に依存することもなくどのような観点からも真である命題というのは存在しないことになる。
ここからは私の考察なのだが、相対主義は古代ギリシアのポリスが結びつき同じ文化を共有する上で必要とされたのではないかと思う。各ポリスで独自に発展した文化同士が接触する時、必ずその思想、特筆して宗教的価値観には矛盾が生じただろう。その矛盾を解消するために、命題の絶対性を排除する相対主義が培われたのではないだろうか。実際、相対主義は弁論において最も強力な論証の一つであったとされる。ソフィストとソフィストが各人の主張をし合っている中で相対主義者がやってくると、人それぞれ感じ方は違いますからと絶対的な答えを有耶無耶にされたという。これはある意味で文化的な衝突を回避する調停者として相対主義が機能したと言える事例だろう。
おわりに
哲学史としては、この結論有耶無耶型の相対主義が跋扈する中で無知を問い続ける過程を通じて真理を追求するソクラテスが現れ、古代ギリシアの青年らに一大ムーブメントを起こすのだがそれはまた別のお話。
俗見茶話を読む際は相対主義のことを思い出し、寛容に解釈して欲しい。それではまた次の俗見茶話でお会いしよう。
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