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満足のいく演奏ができた奇跡

中学校で吹奏楽部に入って以来、かれこれ20年も吹奏楽をやっている。
完全に辞めどきを見失ったし、もう「ライフワーク」でいいかなと思ってる。
やれない時期は休むけど、どうせまたすぐやりたくなるから、ずっと所属している状態。

人前で演奏するのは、楽しそうなお客さんのお顔が見れるので本当に楽しくて嬉しくて好き。
けれど、いわゆる「コンクール」がずっと嫌いだった。
学校だと、運動部や野球部で言うところの「中体連」や「高校野球」であって、これこそが「目標」になってしまうんだけれど、ピリピリした環境でのびのび演奏するなんてことは私にはできなくて、ずっと肩や背中に力が入ってしまい、早く終わって欲しい、と毎年うっすら思っていた。

しかし今年も吹奏楽コンクールの季節がやってきた。
なぜか今年の練習はいつも以上に力が入っていて、私はいつも以上にストレスにさらされていた。
先日記事にした通り、カウンセリングを受けたくなるくらいには追い詰められていた。
かけられる言葉は厳しかったし、求められるものがとても多かったし、その一つ一つが飲み込むのには大きすぎて、咀嚼も消化もしきれない、苦しさがあった。
音楽を嫌いになってまで続ける意味なんてあるのか、と思うほど病んでいて、練習が辛くて、このコンクールが終わったら辞めてやる、と本気で思っていた。

ところが、ようやく迎えたコンクール本番。
想像もしなかったほど、スッキリと晴れやかな気持ちで帰りのバスに乗り込むことができた。

本番のステージの上、心が震えるとはこのことだった。
思った通りの音が会場に満ちていく。
想像した通りの音が、想像を超えて満ちていく。
めったに経験できないので、わかりやすい表現が全然思い浮かばない。
ステージに上がる側でしか経験できない感覚であり、比較できる感覚がわからない。現場ならではと言えばそうだし、音楽はナマモノでありイキモノだと思う瞬間だった。いくら録音で聞き返しても、同じ感覚には二度となれない。

この時を境に、もっと楽器が上手くなりたい、もっと音に溺れたいとしっかり思うことができた。
ここまで自分が満足できて、それ以上に求めるものなんてあるだろうか。

しかしこれはコンクールだから、点数がつく。賞がつく。順位がつく。
私たちは銀賞で最下位だった。
この部分だけが電波に乗って広がれば、私のこの満足感はなかったことになりかねない。
「金賞は取れなかったんでしょ」「最下位でしょ」「いくら自分たちにとっていい演奏でも、自己満足だったってことでしょ。」
過去、近い状況の時は、近しい人にさえもそう言われたことがあるし、他の学校に対して自分がそう思ってしまったこともあった。

だからコンクールは嫌いなんだ。
自己満足で何が悪い?
いくら金賞でも、代表で上位大会に進めても、コンクールとか関係なくても、満足感を得られない演奏はこれまでに何回も経験してきた。
自分たちを満足させられる演奏をするのは、自分だけではできないし、こうすればいいという道が決まっているわけでもない。
それを知っているからこそ、この満足感は貴重で大事にしたいものなのだ。

プロならそうはいかないのかもしれない。
プロなら自分を満足させることはもっともっと難しいかもしれない。
けれど、本業が他にあり時間にも気持ちにも制限のある中、趣味として音楽を続けていくには、この結果は充分。

学生の頃の私ように、コンクールが終わったからもう安心、オフシーズン、とはならない。
もっとうまくなるために、納得のいく演奏ができるように、コツコツとまた積み上げていくのみ。

負け惜しみと言われるならそれもそうかもしれない。けれど、そもそも音楽は勝敗をつけるためにやってない。いつも戦う相手は自分自身。
なんて、言うほどストイックにはやってないけれど、またひとつ向上心スイッチが入ったので、じっくり自分と音楽と向き合ってみようかな、と思った。
暑すぎる毎日、早くお盆休みに入りたいな、、と思いながら、今日も私は楽譜を広げます。

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