わたしの日記 vol.Ⅷ

ちゃんと話しておこうと思ったので、ちゃんと話しておくよ。
僕は遠い昔の事、昨日まで元気に存在していた人が翌日息をせずに冷たくなっていた人を見たことがある。
昨日までは生命体として存在していたのに、次の日自分の身体に表現しようと思ってもしきれないような鈍く冷やかな遺体に変わっていた。
あの日から僕の心には穴が開き、喪失感から来る大きな絶望、打ち付けてくる虚無、6歳のガキには耐えられるはずもない。死にたいと思った事が何度かあるが、でも結局見ての通り死に切れなかった。

残された人の気持ちは同じ残された人にしか分からない、中には残された人同士でも分かってほしくないっていう人もいるかもしれない。
自分は果てしなく後者である。
自我を持ち始めたばかりの子供の時に死を間接的に目の当たりにして、平静でいられるわけが無い、子供の思う気持ちなんぞ分かるか。同じ歳の子供が同じ立場だったら分かろうとしても本質までは分からない。

何が1番辛かったって、別れの言葉とか言えずに旅立ってしまったこと。気持ちの整理もつかずに葬式をやって、気付いたら燃やされ骨だけになった祖父を見て、自分が悪い子だったから死んでしまったのか、とか自分に対して幼少ながら強く責め悔いて、死ぬほど泣いた、生きてて多分あの瞬間以上に泣く事は無いと思う。

自分が常に思うことではあるのだが、よく遺族の悲しみに寄り添ってあげたいとか、心中お察しします、みたいなワードをよく見るのだが、心中察したり、悲しみに寄り添う前に遺族に降り注ぐ悲しみや苦しみや絶望等全て理解してから察したり背負ったりしてくれ。察してもない、分かってもない、んなもん知らねぇよ背負わねぇよって言うのなら、口を開いてくれるな、喋ってくれるな。1文字も気持ちを聞かなくていい、っていうのを私は思う。気持ちが分かるなら話聞くだけ聞いて何も言わないでそっとしといてください。

私の死生観というには烏滸がましいが、私の生きている目的は私のこれから生きるであろう年数の大半を一生それ以上考えても答えの出ない事に対して責め悔いる事であり、その生きる目的が失われた瞬間、私は廃人に真っ逆さまになるだろうし、責め悔い終わるのならそれは死を意味するんだと思う。僕はこの先の人生の中で気持ちを分かってくれる人でも、話すことは多分無いよ。ごめんね。

だから心の奥底の傷になってしまったものをこれ以上こういう所で喋る気はないし、深く話す事もないよ。死ぬまでないね。もうこれで最後かな。私の本当の苦しみを知るのは私だけでいいよ。もし知りたかったら16年?20年?
いや、私の寿命が尽きて骨だけになる瞬間まで私の苦しみを背負ってくれ。

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