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宗教について思う 20 宗教の存在意義について 2 違和感のありか

宗教について思う 20 宗教の存在意義について 2 違和感のありか

先日、

新興宗教のようなものとたずさわった人と話す

機会があったのですが、

話していて、

私はふと違和感をおぼえたのです。

(仏教やキリスト教、イスラム教などの伝統宗教も、
かつては新興宗教であったわけですから、
新興宗教もただ新興宗教であるということだけで否定しては
いけないとは思いますが。)

ふりかえってみると、

私がその違和感をおぼえたのは、

その人が自分を偉くすることや

自分を素晴らしくすること、

あるいは、

自分を清らかなものにすることでもよいのですが、

自分を偉いものにすることや、

自分の価値を高めることに、

とても強いこだわりを持っていることを感じたからでは

ないかと思ったのです。

それは宗教的なことでしょうか?

私にはそう思えないのです。

私は宗教とは自分を偉くするためのものや、

自分の価値を高めるためのものではない、

と明確に思います。

さらに、

宗教にたずさわる人が、

自分の宗教を

自分を偉くするために使ってしまうなら、

自分の価値を高めるために使ってしまうなら、

宗教は現代、存在意義を失ってゆくしかないもので

あるのではないかなと思うのです。

もし、

宗教にたずさわる人たちが、

他者や人間以外のあらゆる生命のなかに尊いものを

見いだそうとするなら、

宗教は現代、まだ必要なものであるでしょう。

でも、もし、

自分を偉くするためや、

自分の価値を高めるためであるなら、

宗教は現代、もうなんの存在意義もないもので

あるのではないでしょうか?

社会が分化した現代においては、

宗教がかつて担っていた役割を担う、

もっと役に立つ職業(もっと偉くなれる職業)がたくさん

出てきてしまっているからです。

たとえば政治のことを、

昔の日本語で、

「まつりごと(祀りごと)」ともいいますが、

その言葉のとおり、

昔は政治は宗教が担う機能のひとつでありました。

でも、17世紀以降*、

政治は宗教がからまないほうがうまくゆく時代になって
います。

*(30年戦争とウェストファリア条約)

司法の機能や道徳の機能など、

倫理的な機能もまた、

現代、宗教よりも、

法曹界や倫理学の方がはるかにうまく担っています。

自然科学や医療の機能もそうです。

貧しい人を助けるという、

救済の機能もまた、

国家や経済活動、非営利団体の方が宗教よりずっとよく

担っています。

文化的な機能や教育的な機能もまたそうであるでしょう。

(宗教は昔は西洋でも東洋でも学校や大学のような機能も

担っていました。)

「自分が偉くありたい。」

「自分が評価されたい。」

「自分の価値を高いものとしたい。」

という生き方を否定はしませんが、

もし、

自分が偉くなりたいのであれば、

自分の価値を高めたいのであれば、

具体的に人の役に立つそちらの世界にゆけば

よいのです。

そちらの世界で活動した方が

はるかに人の役に立つし、

はるかに偉い人になれます。

宗教の修行をして、

あるいは何かの宗教を信仰して、

「自分は偉い。」と言ってみたところで、

それはその宗教団体のなかでしか通用しない、

小さなパンのひときれほども役に立ちはしないことで

あるでしょう。

現代、

宗教の存在意義は社会的に小さなものと

なってきています。

それでも現代、

まだ宗教の存在に役割があるとするなら、

他者や、

人間以外のあらゆる生命のなかに、

いえ、生命をもたない存在のなかにさえ、

なにか永遠で、

なにか限りなく尊いものを見出だすことができる、

ということで

あるのではないでしょうか?

これだけは、

ほかの社会的な職業がけして担うことのできない、

宗教に最後まで残る存在意義であると思います。

「永遠」とか、「存在の尊さ」

というようなものは、

物質的な宇宙からも、

社会という人間の約束ごとのなかからも

けして出てくることはないものであるからです*。

*(その時代、世界で最も民主的、自由主義的な
憲法(ヴァイマール憲法)を持っていたといわれる
ドイツからナチス政権が出てきたということを私たちは
忘れてはいけないでしょう。

経済的に余裕がなくなれば、社会は人権や自由という約束ごとを
簡単にかなぐり捨ててしまうのです。)

もし、現代、

宗教にたずさわるなら、

自分を偉くするためにではなく、

「他者のなかに、

あるいは、人間以外のあらゆる生命のなかに、

なにか尊いものを見出だすためにやる。」

ということを、

忘れてはならないのではないでしょうか?

宗教にたずさわる人たちがそれを忘れたとき、

宗教はおそらく、

人々から必要のないものとされてゆくのです。

宗教とは、現代、

「(他者の)存在にたいする尊敬」

であるべきなのではないでしょうか?

白鳥静香

追伸

洋の東西を問わず、

宗教には宗教特有のあらゆる訓練があります。

禅者であった祖父の言葉でもありますが、

「宗教的な修行とは、

どのような修行であっても、

本当は自分を偉くするためではなく、

他者や自分以外のほかの存在のなかに尊いものを
見出だすためにある。」

のではないでしょうか。

私は現代、

宗教とはそのようなものであるべきだと思うのです。

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