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PLATONIC 太陽の少年ー愛について 序、第一歌、第二歌

PLATONIC  太陽の少年ー愛について

白鳥静香著


 私プロティノスが伝えよう。
 我がプラトン派に伝わる愛の物語、愛の神話を。
 それは、神代といわれるはるかな昔、ギリシアで祭りの最後に歌われた歌、今ではもう失われた神話であり、忘れられた真理である。

 昔、祭りは、三日三夜続けられた。
 その終わり、空は星に、そして大地はかがり火に飾られて、まことに麗しい夜に、その歌は歌われた。
 歌は、その国の二番目の王子によって歌われたという。
 彼はまつげが長く、神秘的に美しい瞳で人々に語りはじめた。
「今年は私が歌い手となりましょう。今日は年に一度の女神の祭りゆえ、私もまたふつうの歌は歌いませぬ。
 今日ははるかな昔、私たちの父祖たちにミューズの女神が伝えた愛のはじまりを歌うといたしましょう。
 さあ、聞いて下さい。人々よ、この愛の神話、愛の真理を。」



第一歌

王子の歌のはじまり、琴の音とともに。

ああ、先ほど夕べのたそがれの中、鳥たちが鳴いていた。
それはきっと妻を恋う声であったのだろう。
そして今、月は、あの欠けたる月は、光に満ちることを願い、太陽を求める。
そうあなた方もまた、妻を恋い、夫を恋い、恋人を恋うているのではないだろうか?
そうではないという人々も、家族の愛にあこがれ、親の愛、子の愛を求めている。

あなた方は、あの山の上から自分たちのこの国を眺めたことがあるはずである。
その時、あなた方は何を感じただろうか?
必ずしもその町の灯の中、よいことばかりがあるわけもなく、悲しいことや、時には不正にあい、憎しみに燃えたこともあったろう。
しかし、たとえそうであったとしても、一人あの山の上から自分たちのこの国を眺めたとき、美しいと思わなかっただろうか。なつかしいと思わなかっただろうか。
それこそが愛を、愛し愛されることを願う気持ちに他ならない。

ああ、そもそも人が生まれてくるということは、はじめから愛を求めるために生まれてくるということなのではないだろうか?
赤ん坊は、泣いて生まれてくる。
母の愛を恋うて泣き、母の乳を求めては、またも泣く。
中には、自分の心には憎しみしかなく、憎むものの破滅をこそ望むのだという人もいるかもしれない。
しかしそれとて、憎む相手が自分の求めたとおりにしてくれなかったがゆえの怒りなのではないだろうか、そうだとすれば、憎しみさえもまた、愛を願う気持ちに他ならない。
人はおそらく、パンよりもむしろ、愛を糧に生きているのだ。
その証拠に、飢えのために死のうとする人がいるとはきかないが、愛を失って死ぬ人は、あとを断たない。

ああ、目を開けて見るがいい。実は、人間だけではなく一切のものは、この世なる一切のものは、愛を求めるために生まれてくるのだ。
例えばあの雲は、また他の雲を求め、ひとつになろうとしている。
たとえ風に吹き散らされてばらばらになったとしても、またひとつになることを求める。

この草木を見よ。
この草木も、いつか実をつけ、種をつけるだろう。
その種は大地を求め、大地もまた種を求める。
川を見るがいい。
すべての川は海を、唯一なる海を求め、海もまた、川を求める。
月もまた、太陽を求め天をめぐり、
あの神のごとき星々でさえも、愛ゆえにその調和と軌道を保とうとするのだ。

なぜ、一切のものは、これほどまでに愛を求めるのだろうか?
それは悲しいことであるのに……。
そのわけが、あなたがたにわかるだろうか?



第二歌

聞け、人よ、人々よ。
愛のはじまりを。愛のはじまりのその伝説を。

すべてのものは、この世なるすべてのものは、愛を求める。
愛を求めてやまない。
それは実は、私たちの、その魂が欠けているからなのだ。
この世なる一切のものは、つくられたその時から、魂が欠け、存在が欠けている。
ちょうどあの月のように……。
それゆえに、地上のものは、欠けた魂を満たし、完全なる存在になろうと、月が天をめぐるように地をめぐって、かたわれを求める。
それこそが、愛のはじまりであるのだ。

不完全な存在であるとは、悲しいことだ。
広い世界をめぐり、かたわれを求めては泣き、また死を想いては泣く。
その不完全な、また不完全ゆえに死すべき存在も、愛によってかたわれを見出し、子を産むことができる。
そして少しだけ、死を免れる……。

ああ、愛とは、地上における唯一の救いのようなものなのだろう。
しかし、しかし、その救いも完全ではありえない。
成就するかに見えたとき、絶望はくる。
地上では魂は、決して完全にかたわれとひとつにはなれないからだ。
そう、魂がひとつになるのを、体が、体こそが邪魔してしまう。

なのに、なぜに、完全な存在である神が、このような不完全であわれな存在をつくったのだろうか?

私はそれを語ろう、その秘密をあなた方に語ろう。
それは今はもう失われた太古の記憶……。
神代すらもはるかにさかのぼる秘密。

まず、時間の前に神のみが存在した、そして神ははじまりもなく光り輝いていた。
まるで太陽のように……。
神は、完全なる存在。生まれることもなく、滅することもない。
神は、その光があまりに強く、あふれ、あふれ、それゆえにあふれた光が、諸々の魂をうむことを意志した。
あなた方は、原初の神がいかにして諸々の魂をつくったか、一なる神がいかにして多をつくったか分かるだろうか?
あなた方に、想像がつくだろうか?
それは壮大な光景であった。

神はその時、鏡に、沢山の鏡に、自分自身の光を映したのだ。
一切のものは、そうやって創造された。
そのようにして、一は多に分かれてきたのだ。

ああ、それゆえに、あの天なる星々は、神のそのひとみに似ている。
そして地上の花たちは、やはりその星空にそっくりなのだ。
あなた方地上の人々には、分からないかもしれない。
しかし、もしあなた方が空をぬけて、星空を外から眺めれば、星空が花の咲くところにあまりに似ていることに、驚きの声をあげるに違いない。
花だけではない、地上の一切のものは、どこかしら星空に似、神そのものに似ている。
それは、一切が鏡に映った神の像であるからなのだ。
神は、諸々の鏡に映った自らの似姿を善しとし、慈しみ、成長を願った。
あなた方は喜べ、あなた方もまた、実は輝ける神の似姿である。
光を宿した、高貴なる存在であるのだ。

しかし、しかし、たとえ神を、神の光を宿そうと、鏡はものの片側をしか映さない。
鏡に映ったものは、たしかに本物とそっくりである。
しかし、やはりそれは片側から見た姿でしかないのだ。
それゆえに、愛というものが生まれた……。
愛とは、鏡に映った片側が、自分のもう片側を求め、ひとつになり、完全なる自分自身原初なる一をとり戻そうとする試みなのだ。
ゆえに一切のものは、天をめぐり、地を歩み、自らのかたわれを求める。
ある者はめぐり逢い胸をときめかせ、ある者はめぐり逢って寂しい心をいやす。
ひとつになろうとして抱き合い、それは成就するかに見える。
長い時をかけ、傷つきながら相手を捜してきたのだから……。

ああ、それなのに、それなのに、その願いは砕かれる。
私は先ほど、すべては鏡に映った光だといった。
その鏡そのもの、鏡面そのものが、光と光がひとつになろうとするのを妨げてしまうのだ。
それは悲しいことだ。
鏡に閉じ込められた光。
私には、それはまるでかごに閉じ込められた小鳥のように見える。
小鳥が空を愛し、空にあこがれ、空と一つになろうと、かごの中をあばれて飛びまわっているように見える。
しかし、小鳥はかごが邪魔をして外に出られるはずもなく、ついに翼を痛め、飛ぶことをやめる。
悲しいあきらめの目をして……。
私には、この世に生きるものの目は、そういう悲しい目に見える。




PLATONIC  太陽の少年ー愛について 第三歌



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