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宗教について思う 18 宗教の存在意義について

宗教について思う 18 宗教の存在意義について






私は特定の宗教を信じてはいません。


この先も何か特定の宗教を信じるつもりは
ありません。




でも、

宗教に存在意義がないと思っているのか?

というなら、


必ずしもそうではないのです。







私は考え方によっては、


現代でも、

まだ宗教に存在意義がありえるのではないだろうか?

と思っています。






それはどのようなものでしょうか?


当然、それは、

過去、宗教が持っていたそれと同じものではない

はずです。






私は、もし現代、


宗教にまだ存在意義があるとするなら、



それは他者に、


あるいは、

人間以外のほかのあらゆる生命に尊厳を見出だすことでは

ないだろうか?


と思っています。





尊厳という言葉が分かりにくければ、


存在にかけがえのなさを感じることや、

尊敬を感じることであると言いかえてもよいかも

しれません。







宗教を、

道徳やルールを教えるものであると考える人も
いますが、


(生物学者のスティーブン・J・グールドなどは
その典型であると思います。)


私は必ずしもそうは思わないのです。




道徳やルールは、

人がみんなでともに生きるという事実から

自然に生まれてもきますが、



尊厳は、


存在のかけがえのなさや

存在にたいする尊敬ということは、


超自然的なものを根拠にしなければ

出てこないのではないかと思うからです。






生命の尊厳や

存在のかけがえのなさというような

形而上学的(物質的ではないもの)なものが、


物質的な世界観のなかから出てくるでしょうか?




生命の尊厳や

存在のかけがえのなさというようなものは、


物質的なものではありません。



物質や物質的な世界をどれほど分析しようと

けして出てくることはないでしょう。





私は現代、


宗教的なものに存在意義があるとするなら、

そこではないかと思うのです。









宗教は生命に尊厳を見出だすことができるかも
しれません。


宗教は物質的ではない世界観を持っているからです。





でも、

宗教が生命に必ず尊厳を見出だすことができるのか?

というなら、


それはそうではないと言わざるをえないでしょう。





たとえば、もし、

何らかの宗教を信じる人が、


宗教を学ぶことや、

宗教を信じることを、


「自分がほかの人より正しい。」ということの根拠に

してしまうなら、




生命の尊厳や

存在のかけがえのなさ、

存在にたいする尊敬のようなものは、


宗教を学ぶ、

宗教を信じるという、

そのことによって、


逆にその人の目には見えなくなってしまうでしょう。






過去、


宗教戦争や異端に対する迫害、

それから大航海時代以降の西洋列強の人種差別など、

(西洋列強の人種差別も宗教がひとつの根拠となって
いました。)


宗教が異常なほど残酷な行為をなしたのは、


その宗教を信じる人々が、

宗教を自分がほかの人より正しいということの根拠に
したことによって、


他者の尊厳を、

他者の存在のかけがえのなさを

見失ったからであったのではないでしょうか?





宗教は

存在に尊厳を見出だしもするし、


逆に見失わせもする、



愛や奉仕に生きる人が出たのと同じ宗教から、


宗教戦争や異端にたいする迫害に残酷さを発揮する人が

出てきもするのです。











私たちは、


この世界に存在するすべてのものに

尊厳を見出だしていかなくてはなりません。



なぜなら、

この世界が尊厳のない世界であったら、


その世界のなかで生きる私たちの生もまた、

尊厳のない、

意味のないものとなってしまうからです。







私は現代、


もし、宗教に存在意義があるとするなら、

生命に尊厳を見出だすことであると思っています。










現代、宗教が

その存在意義を発揮することができるかどうか?


現代、宗教が人の役に立つことができるかどうか?





それは、


宗教を信じるひとりひとりの人が

その宗教をどのように使ってゆくのか?




宗教を

ただ自分が人より正しいことを証明するために
使ってゆくのか?


それとも、

他者の生命の尊厳を証明するために使ってゆくのか?





宗教を信じる人ひとりひとりのその意志に

かかっているのです。





白鳥静香











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