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まだ泣いてはいけない時



私にとって“誰かが居なくなる“という経験は、鉢植えの花が枯れるという事実によって訪れた。
私にとっての“あの人“が大切に育てていたシクラメン、それがすっかり萎れて鉢植えの縁に褪せた様子で項垂れている。
春というには十分だが、未だ冬の空気が名残るように吹いている季節に、あの人のシクラメンは枯れてしまった。

私があの人と呼ぶ彼女は花が好きだった。
あの人は毎日太陽が山肌から顔を出す前に起きてきて、その小柄な身体には不釣り合いな程大きいジョウロを持って、庭の花々に水をやっていた。
私もたまに帰省したついでに、彼女の後ろをついて花に水をやって回っていたが、そのあまりの仕事量に驚いたものだ。
「手伝ってくれて助かるわ。」
彼女はそう言って、病のせいですっかり抜け落ちた前歯を恥ずかしがりながらはにかんだ。
私はその時、なんと言って答えたのだろう。
今はそんな事さえも思い出すことができない。

こんな時の私は、あるバーで飲んでいた時に出会った3人兄妹達を時折り思い出す。
彼らは時計がすっかり回った深夜にも関わらず、連れ立って飲んでいた。
長男、長女、次男と自己紹介した彼らは、兄妹というにはあまりにも仲の良い様子だったので、驚いたことを覚えている。
大人になってからもこんな風に仲睦まじく会話を紡ぐ彼らに、ある種の憧れを感じた。
土曜の夜だというのに人も少なになった街並みを眺めながら飲んでいると、いつの間にか客は私と彼ら兄妹だけになってしまった。
「ここは初めてくるバーなのだ。」と楽しげにはしゃぐ彼らは、どうやら東京の人ではないらしい。
彼らがどこか素朴で素直な印象を抱かせるのはそういった事情のせいなのか、と私はひとり納得し、明日の旅行の予定を尋ねてまた会話に耳を傾ける。
そうして話を聞いている最中、私はどうして彼らが素朴な印象を持っているのか考えていた。
旅行で東京に来る人間はごまんといるが、彼らは何かが違うような気がする。
半ばオートマティックに笑みを浮かべて頷いていた私だが、唐突にその問いの答えに辿り着いた気がして、短く声を上げた。
きっとその瞳のせいだ。
朗らかな若草のようなその眼差しが、彼ら兄妹の印象を素朴にしているのだ。
東京の人間は、と言ってしまうと主語が大きくなるが、さまざまな人間が流動的に集まる場所であるが故に、あまり他人の目を見ない。
実際には目を見て話しているのだが、瞳の奥にある瞳孔が閉じている。
目を見開くということは心を開くということでもあるが、東京に長く住む人間ほどさりげなく目を細めて笑うのだ。
それは恐らく、視線を合わせるというそれだけで、他者と簡単に繋がってしまう恐ろしさを身に沁みて感じているからかも知れない。
兄妹達に興味を持った私は、すっかり空になったグラスをバーテンダーに差し出して、思いがけず二杯目のハイボールを頼んでいた。
兄妹達と話すうちに三者三様の性格が見えてきた。
繊細な長男、明るくリーダーシップを発揮する長女、人当たりの良い次男といった風。
明日の予定から、家族構成、生い立ち…と酒と話が進んでいく中で、今まで言葉少なだった長男が口を開いた。
「痛みってどうしたらいいんでしょう。」
突然の問いに、私は思わず面食らってしまった。
痛みとはなにを指すのでしょう…と私が尋ねると、長男は「僕は痛みが嫌なんです。」と言った。
痛み…私がすっかり考え込んでしまうと、その様子を見ていた下の兄妹2人が、「きっとあのことだよね。」と囁き合う。
“あのこと“とは…?私が触れても良いものか躊躇いながらも、少しの好奇心が私に相槌をするように促していた。
すると長女が先ほどよりも静かな声音で「昨年おじいちゃんが亡くなったんです。」と打ち明けた。
どうやら長男は大のおじいちゃん子だったらしい。
彼の言う“痛み“とは、大切な人が亡くなる痛みだった。
その当時の私にはその痛みがどんなものであるか、よく想像出来ていなかった。
私は少し驚いてしばらくの間口を噤んだあと、看護師時代に培った経験を元に彼の話を傾聴しようとした。
私が想像できうる限りの痛みを身体に反芻して、その痛みをどうやってやり過ごしたのかを考える。
どんなやり方も合っているようで、全く的外れにも感じる。

あの人がいなくなってしまった今、私はあの長男の顔をよく思い出す。
「痛いんです。痛みが無くならないんです。」
そう言って顔をこわばらせる彼に、私は何も言えていなかっただろうし、今だって何も言うことができない筈だ。
もう痛いのは嫌なんだ、と言って視線を落とす長男の横顔が幻のように立ち現れるその度、私は「そうだよね。」と言って彼の幻影を抱きしめる。
そっと抱きしめて、また忙しない日常に没入する。
そして、ふと街中ですれ違う懐かしい匂いに出会う度、私はぐっと涙を堪え、潤んだ視界で前を見る。
もし叶うなら、もう一度あの兄妹達に会いたい。
その時は、私も一緒に泣くことができるような気がする。

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