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うつ病と診断されて幾年月(その3)

派遣の仕事と在宅介護に加えて、「心療内科に月1に通う」という日課が出来た。
愛猫が虹の橋を渡ってしまってから、私の喪失感はしばらく尾を引いていた。介護の方もそつなくこなしてはいたが、心ここに非ずな状態。仕事をしてるときが、何もかも忘れて没頭できた。

母との仲は相変わらず冷ややかで、口数が減っていった。
猫がいた頃は、何もかもが猫が中心の生活で、入院しては「猫が待ってるから帰る!」とごねることが多かった。
愛猫との別れは母にも堪えたのだろう。しばらく猫の話はなかったが、たまに愛猫の名を呼び「何処行ったのかしら」と聞かれたときは胸が締め付けられた。

そんな時、世間を揺るがす大事件が起きた。


新型コロナの大流行

外出制限の煽りを受けて、私の派遣期間も早期で終了。つまり、無職になった。
仕事が唯一1人になれる時間だったのを取り上げられた感もあり、それよりも稼ぎがなく、失業保険と母の年金で生活を切り盛りしなければならない現実に焦りを感じた。

ケアマネとの面談の日に、「派遣切り」について伝えた。結論として、「母を老健(介護老人保健施設)などの施設に預け、特養の空きを待ちましょう。その間、仕事を探しに集中すること」となった。
ケアマネが見繕って下さった老健の資料を片手に、各施設巡りに奮闘した。
この時もまだ心療内科にも通っており、うつ病で精神がHigh&Lawと波打つ日が続いた。 

コロナ禍の時に老健に預けるということは、「簡単には母との面談ができない」と言うことを意味している。
永久の別れではない。私は幾分か気持ちが楽になった。介護から解放される。ただし、仕事にこぎ付かなければならないという使命感があった。

ケアマネさんの紹介で、地域の生活・仕事相談センターにも行った。そこで、「介護職はいかがでしょう?」とアドバイスを受けた。
在宅介護経験者でもあり、且つ、介護初任者研修は取りやすい資格だと聞き、求職しながら資格を取った。
初任者研修を取ったスクールでも就職斡旋をしてるとのことなので、ハロワと合わせて就活を始めた。

ハローワークのハシゴのおかげで介護職に運良く出会ったはいいが、辛酸をなめさせられた。詳しくは下のリンクから。

介護職でまた軽くうつを悪化させる。 
ご利用者が原因でなく、職場仲間のパワハラ・モラハラだから仕方ない(詳しくはリンク先より)。
介護職を辞めたタイミングで、運良く派遣会社から仕事の紹介をいただいた。
以前お世話になった職場の短期派遣ではあったが、働かない寄りかはマシだった。
派遣社員に再び返り咲く、私。

在宅介護から施設に変わったとは言え、やることはある。老健にいると洗濯は家庭でやらなければならない。
コロナ禍で面会は適わないが、洗濯物の送り渡しで週1回行かなければならなかった。
なるべく近場の老健を探し、此処しかないと言うとを決めた。
週5で働き、土曜に洗濯物を取りに行く。着替えを渡し、日曜に洗濯して、翌週にその洗濯物を渡して、また引き取る……と、週末のルーティーンは決まっていた。

これが特養になると洗濯物も洗って貰うから、完全に施設任せとなり更に介護は楽になる。

施設に母を託すことは、私の生活には大変助かった。

ただ、コロナ禍で面会が出来ないという汚点があった。会えないと、母の様子が分からないのだ。
予約制でオンラインで会話が出来るとは言え、機械音痴の母が画面の向こう側に自分の子が居ることを理解するには難しいと思った。

コロナ禍がよくやく落ちついた頃、母の特養受け入れ先が決まった。
老健の窓口で「介護タクシー」を用意するよう言われ、予約をする。

半年振りに会った母は、受け答えが出来ないほどすっかり弱っていた。

施設に任せっきりだったのが裏目に出たか、とその時は後悔した。
特養までに行く道中の、沈黙が堪えきれずアレコレと一方的に私は喋っていた。
窓の遠くを見つめて惚けているだけの母に、なにか悔しい思いがこみ上げてきた。

何故、自宅介護できなかったのだろう。
自分の力不足だったのだろうか。
これが母の運命だったのだろうか。

特養に着いて、生活に必要な物を引き渡す。
やはりコロナ禍での影響で面会も予約制でオンライン限定だった。

「じゃあ、元気で頑張れ」

別れ際に声をかけたが、やはり返事はなかった。ちょっとだけ目が動き何か言いたげそうだったが、私には解らなかった。

おやつの差し入れを特養ではお願いされていたので、やはり土曜か日曜に1度施設を行かなければならなかった。
最初の頃は母の好きなチョコクッキーや菓子パン、ヨーグルトなどを運んでいたが、それもすぐに施設側から断られるようになった。

「固いのは飲み込むのが困難なので、ゼリーとかヨーグルトのような柔らくて飲み込みやすいのをお願いします」

間接的にしか母の案配が解らないもどかしさに、私は少し苛立ちを覚えた。
働くことは出来るようになっても、会えないのでは意味がない。なんてタイミングでコロナが流行ったのだろうか、と。

家に帰れば誰もいない。
誰も居ない此処とをいいことに、部屋は荒らし放題。ご飯も適当でいい。食べたり食べなかったり。
風呂も1人なので入ったり入らなかったり。
兎に角、介護から解放されてもうつ病の症状が治ることはなかった。

そして、遂にその時が来るのであった。

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