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SW/AC Library |永井玲衣『水中の哲学者たち』

実際にSW/ACの本棚にあったり、相談員らが参照する読みものを紹介するSW/AC Libraryです。

SW/ACがつなぐ福祉/介護/障害/対話/アートの領域などなどをテーマに、それぞれの分野に馴染みのない人にも接点や関心を持つきっかけになる書籍などが登場します。執筆は相談員の小泉です。

対話形式の文章ですので、訪問者がこられたら、SW/AC でどんな相談の場をつくるのかも垣間見えるかもしれません。

今回は永井玲衣「水中の哲学者たち」(晶文社、2021)をご紹介します。先日(2022/4/2)開催した談話室と関連する対話について永井さんの本を通して考えてみたいと思います。

〈以下の相談内容は実際の相談ではなく、架空の創作です。また紹介する書籍の文章表現を尊重して文章を構成しています。〉

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この相談者は、SW/ACの談話室に来てくださった方。教育に関わる職場にお勤めですが、なかなか同僚とじっくり話をする機会が持てず、そうした場を作るにはどうしたらいいか相談に来られました。

相談者:談話室では、初めてお会いする方もいましたが、フラットに話ができたのが新鮮でした。

そう感じてもらえていたらありがたいです。私たちも談話室のひらき方を色々と試行錯誤しながら、毎回少しずつやり方を変えています。

教育現場では10年くらい前からコミュニケーション能力を高める、ということが言われ始めて、最近は対話にも関心が広がっています。とはいえ、わたしは時間がなくて、自分の話を同僚にする、というのが一番の課題です。

仕事を優先していくと、その時々の対応で必死になって、じっくり話すということは難しくなっていきますよね。

やっぱり、子どもたちに向き合うだけで、忙しいです。

子どもと話すだけでは、不十分だと感じておられる?

それだけで完結すると、自分と子どもだけの世界で、私はなんでも知っていて教えてあげる教室の王様みたいになってくる。世の中で起きていることをどう伝えるかとか、自分が本当は迷っていることとか、そういうことを考えるのをおざなりにしてしまう感じがして。

そういうことに意識を向けているのは、対話の始まりかもしれないですね。最近、私は永井玲衣さんの「水中の哲学者たち」を読みました。私も彼女と同じように哲学対話というのをいろいろな場所でやっていたのですが。彼女の言葉ですごく納得したのは、対話は「わかりあうためにやっているのではない」というところです。

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わかりあえないのは、対話が失敗しているのでは?

哲学対話では、より正しい議論をできた方が勝ちという考え方をせずに、「学校に通わないといけないのはなんでだろう」とか、「〜〜時、悔しいのはなぜだろう」とか、一つの問いをみんなで考えていくためのいくつか簡単なルールを設定して、問いを探究していきます。

そのときに、人の話を聞くことができるのは「お互いの話をわからないからこそ」だと永井さんは言います。本当のところ私たちはわかりあえない、相手の全てを知ることはできない。そういう意味で、「対話というのはおそろしい行為」だけども、こうして対話をしてみることで、普段のコミュニケーションや自分の考えに「気を払う(ケア)」ことができる。

「他者の考えを聞くわたし自身をケアする。立場を変えることをおそれる、そのわたしをケアする。あなたの考えをケアする。」

これを読んで、ケアという言葉と対話をよく結びつけたものだなあと思いました。

「人の話を聞きなさい」、って子どもにはよく言うけど、ある意味、わたしの頼み事をわかってほしいから言っていたのかも。わからないから聞いてみようというのはいいですね。わかりあうというだけではないんですね、人と話すことは。

もちろん、わかりあいたいと思うのが人間で、そこを目指していくのだと思います。でも、全てがわかるという前提で話すこと、それから、わからないかもしれないけど、わかりたいと思って聞き、話すこと。態度によって聞こえてくる話は変わってくるのではないでしょうか。SW/ACの相談でも、わかりたい、でも全てをわかるわけではないと思いながら、お話を聞かせてもらっています。

もともと談話室はSW/ACの奥山が寮生活で本物の「談話室」があって、その場で体験したコミュニケーションが独特で、そんな場が作り出せたら、と名付けたのがきっかけなんです。「談話室」からはまた違った対話の形が生まれてくるかもしれません。

自分が何を対話と感じるのか、もう少し考えてみたいですね。そのためにも、ちょっとずつ自己開示を同僚にしてみたいです。


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