見出し画像

大衆から移動の自由を奪う為のEV推進

「もしも今、自動車が「100%EV」になったら…本当に便利で経済的な社会が訪れるのか?」
(現代ビジネス/川口 マーン 惠美)


 左翼・全体主義者によって、大衆から移動の自由が奪われようとしている。
 欧州とか言う死の大地において、何が起きているかを伝えてくれる、有意義な記事である。

 昨今、「欧州はEVに舵を切った」「日本は出遅れた」「トヨタも終わりだ」という主張が猛威を奮っている。
 これは日本という国にとって脅威である。
 事実は違っていても、大衆にその様な誤解が浸透すると、幾つもの弊害が生まれる。
 産業界は人材確保が困難になる。ただでさえ少子高齢化で人材不足に喘ぐ中でのネガティブキャンペーンである。たまったものでは無い。
 おかしな政治家も生まれる。「EVに対して補助金を」「自然エネルギー発電を次世代の成長産業として優遇策を」などと言う、政治家なのかテロリストなのか分からない様な輩に、大切な1票を投じてしまう人が増えるのである。
 結果は今の日本や、引用した記事にある様な欧州各国の惨状である。

 ところでこの記事にも何点か、間違っているとは言わないが、本質を理解していないと勘違いを誘発しかねない表現も含まれている。
 そこも含めて述べてみたい。


序章 〜前提〜

 製造業というのは古今東西を問わず経済の基盤である。製造業を蔑ろにして国家が繁栄する事など有り得ない。
 余程潤沢な化石燃料が得られるとかなら別だが、それでも欧州は北欧の化石燃料だけで全域の経済を賄う事は不可能だし、米国も同様である。
 日本とて、燃料採掘(尖閣や北方領土は化石燃料の宝庫)に対して本気になったとしても、やはり一億何千万規模の人口をそれだけで養うのは不可能であろう。

 経済成長に欠かせないのは付加価値の創造である。自動車産業を例にとれば、ただの鉄、ただの樹脂材、ただの液体燃料、ただの電子部品、それらをバラで与えられたところで、普通の人には何の価値も齎さない。
 それらを自動車として仕立てる事で初めて、広く一般大衆にとって価値のある製品となる訳であり、その付加価値に対して需要が発生する(※補足①)事で経済効果が生まれる。

 EVに対して需要があるか。
 エンジン車と同等の価格であれば、航続距離に問題があったとしても、自宅で充電出来るというメリットの方を重視する人は大勢居るだろう。
 しかし、各国これだけEVの優遇策を実行し、数十万円から百万円越えの補助金を出しながら、エンジン車を一気に駆逐する様な状況にならないのは何故か。
 それは、高過ぎるからである。
 何故高過ぎるかと言えば、物理・化学の面から合理性を欠くからである。
 どの様に合理的では無いかと言うと、クルマの様な移動体が必要とする大きなエネルギーを貯蔵する事に、バッテリーは不向きだからである。

 EVの売りは「自宅での充電」の他、「静粛性」「ドライバビリティ」「緊急時の蓄電池」などが挙げられるが(※補足②)、それらには、一般大衆にエンジン車との価格差を納得させられる程の価値は無いという事である。
 普通なら、「まだまだEVは高価なので、金持ちの道楽で買う様なものだな」「EVは高いので、暫くは富裕層向けと考えるべきだな」で終わりだが、そこをおかしくするのが補助金政策である。


第一章 〜補助金〜

 もし、この様な製品を補助金漬けにしたらどうなるか。
 本来なら、「高価過ぎる」というブレーキが効いて需要を抑制される筈が、無理に需要を喚起されるという事である。
 結果、商業ベースで採算の合わない製品が実際のポテンシャルよりも多く生産される一方で、商業ベースで採算が合っており本来はもっと生産される筈の製品が生産量を絞られる。
 前者には補助金が出るので生産性が下がる。後者は生産量が絞られた所為でやはり生産性が下がる。

 補助金の財源は税金である。補助金を出す為に国民はその分多く税金を支払わなければならない。
 取られる税金が増えると貯蓄が減る。
 貯蓄が減れば投資が減る。
 投資が減れば需要を喚起する機会が減少する。
 需要を喚起する機会が減ると、付加価値を創造する機会が減少する。
 創造される付加価値が減れば経済が縮小する。
 その上、商業ベースで採算の合う製品(=付加価値の高い製品)が生産量を減ずる事は、やはり経済縮小に直結する。
 補助金というのは、一部の例外も無く忌避すべき施策である。


第二章 〜雇用減少〜

 引用した記事で注意して読まなければならない一文がある。

 電気自動車は従来の自動車の半分以下の部品で作れる上、それほど複雑な工程も必要ないため、メーカー自体もいずれ雇用が激減していく。

引用した記事より

 川口氏がどの様な意図でこう書いたのかは分からないが、1つ理解しておくべき事がある。
 それは、「エンジン車が自然に電気自動車へシフトする分には、自動車メーカや部品メーカの雇用減少は、社会にも経済にも何の問題も齎さない」という事である。
 そこでおかしな規制など無ければ、EVに関連する新たな付加価値を提案する者や、人材流出を新たなビジネスチャンスとする者が自然と現れるものである

 何故、現実はそれ以前の段階で止まるのか。
 それは、前述した様にEVという製品が、著しく経済合理性を欠くからであり、多少なりともEVが売れているのも、狂気的な優遇策と補助金ありきだからである。

 自動車メーカや部品メーカの雇用減少は、それ自体が問題では無い。
 本来はもっと需要がある筈の製品に対して、意図的に需要が阻害される。然し、EV新たなビジネスチャンスとを見出す事も理論的に不可能。
 この様に歪な状況が人為的に齎されている。
 これこそが問題の本質である。


第三章 〜何故EVを優遇するか〜

 これまでに述べた様に、EV優遇施策は社会にとって有害でしかない。なのに、何故その様な愚行がエスカレートするばかりなのか。
 その答えというか、「これを狙っているのだな!?」と思える事象が、記事の中で紹介されている。

 スイスが電気自動車の走行制限を検討

 ドイツはどうかというと、デジタル・交通省によれば、走行制限はしないが、充電制限はありうるとか。(中略)結局は走行制限と同じだ。

引用した記事より

 ぶっちゃけた話、EV推進を叫ぶ者の目的は、CO2でも無ければ、温暖化でも無く、気候変動でも無い。
 目的は、「大衆を支配する事」「大衆から搾取する事」「大衆を隷属させる事」である。
 EVしか売っていないのに、充電を制限される。
 「一般大衆に移動の自由など許さない」という、左翼・全体主義者の醜悪な願望が具現化しようとしている


※補足①

 「需要と消費が経済を牽引する」という勘違いが横行する様になって久しい。
 その様な勘違いは早急に捨てなければならない。
 先ずは十分な貯蓄があり、余裕分が投資に回され、その結果として需要が生まれ、消費行動が発生する。
 いきなり需要だ消費だと考えてしまうと、根底からおかしくなるという事である。

※補足②

 EVの長所に、「走行中にCO2を出さない」という点は含まれない。
 何故なら、CO2削減は徹頭徹尾、無駄だからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?