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思想哲学の文脈

最近、『生と死の弁証法』という記事を書いて、ネットにある「生と死の弁証法」に関する他の記事を読んだ(と言ってもまだふたつだが)。
そうすると、「死」を論じる際に使われる「死」の種類の概念として、「人称性」という概念があるらしい。ジャンケレビッチという人の作った概念だ。「一人称の死」は私の死であり、「二人称の死」は身近な親しい人々の死であり、「三人称の死」は他人の死である、そういうものらしい。
しかし、私は『生と死の弁証法』を書いたとき、この概念を知らなかった。そして、これからも使うつもりはない。仮に使うとしても、それが自明の概念であるとして使用はしない。必ず批判精神を持って使うはずだ。と、言うのも、哲学を語るとき私たちは過去の哲学の文脈で語ることが多い。私も『生と死の弁証法』では、ヘーゲルの弁証法について論じた。つまり、生と死を止揚するという点が肝だった。その観点からすると、ジャンケレビッチの人称性の文脈ではまったく考えていない。つまり、ジャンケレビッチからは自由だった。
しかし、思想の自由とはなんだろう?
私たちは過去の作られた概念を使用して考えるしか道はない。もしかしたら「生」や「死」という一般的な概念さえ自分オリジナルなものではないかもしれない。いや、たぶん、オリジナルではない。
私は大学の哲学科に属していた時代から、三十代半ばくらいまで、哲学書を読んでいた。しかし、読むのをやめて十年になる。そうなると、哲学を外から眺めることができる。
たとえば、中学からハマっていた仏教は現在の私から見たら、ひとつの文脈に過ぎなく見える。今、私が仏教をどんな思想哲学か説明すると、「あれはブッダを偉大な完璧な人と信じる思想哲学です」となる。間違ってはいないと思う。仏典を読んでいると、ブッダの言っていることは絶対に正しいという錯覚に陥る。悟りとか解脱とか、その文脈の中にいない人には意味がわからないはずだ。
日本の思想哲学は、中国から入ってきたものを重視していた。というか、先進国が唯一中国で、その向こうにインドがあった。もちろん、縄文弥生の時代から受け継がれてきたものもあるだろう。古代から日本の知識人はその思想哲学の多くを中国から輸入していた。それが、明治になり、先進国が欧米になった。もちろん明治時代にはまだ、江戸時代以前からの中国由来の思想哲学の文脈が生きていた。明治でそれがひとつに混合した。明治時代、思想家哲学者はそのふたつの文脈の合流地点で奮闘した。その合流の文脈にあることが知識人だった。逆に、その文脈で語れない者は知識人ではなかった。
今でも、哲学者などは思想史哲学史の文脈の中でしか語ることを許されないような気がする。学者は博士号を取得するには論文を書いて、学会で認められなければならないらしいが、そうだとすると、その審査員たちは、明治、いや、もっと昔から権威の座に座ってきた人たちで、代々、権威からの認証を受けてきたアカデミズムの文脈の中の思想哲学ではないだろうか。今日読んだ論文も昔の学者の文章の引用がやたら多かった。哲学は読んで調べて、文章を書くというものだろうか?まったく読書をしない哲学者はいないのだろうか?私は考えることが大事だと思っている。哲学書を読むのもいいが、著者がなんと言っているかを読み解くことに腐心するのではなく、その哲学書をヒントに自分で自由に考えることのほうが大事だと思う。
さて、問題はその自由だ。
私たちは過去の文脈から外れて自由に考えることなど可能なのだろうか?私だって、自由に考えているつもりで先人の文脈の中で考えているに違いない。ただ、例えば、生と死について考えようと思ったら、まずすべきは、読書ではなく、考えることである。先人がなんと言っていたかを調べるのは二番目だ。日本の哲学者たちは、この二番目から始めているように思われる。そして、最後には行動によって思想哲学を実践に移すべきだと思う。読んでその内容を論文にまとめるだけ、それは哲学ではない。
何か考えようと思ったら、即、それについての文献を引っ張り出すというのは自由とは言えない。読書経験も含め、自分の行動実践の中からヒントを得て考えることこそ自由だと思う。経験の中から学ばず、ただ、過去の思想書哲学書ばかりを漁る人生は自由であるとは言えない。
私たちは「歴史」という大きな文脈の中で生きている。その中で何を考えようと、完全なオリジナルな思想というのはない。しかし、「歴史」という大きな文脈からは逃れることはできないが、その中の小さな文脈(例えば、西洋哲学、仏教など)の中でだけ考えるようになっては自由とは言えない。学者では○○がご専門、という人ばかりだと思うが、例えば「ヘーゲルが専門です」と言えば、「ヘーゲルについて知りたければこの人に訊けば間違いない」と思われ、その学者は、そこで恥をかかぬよう、ヘーゲルについて勉強しまくる。これはまったく自由ではない。だいたい、ヘーゲル専門って情けなくないか?その人はヘーゲルについての語り部か?自分の哲学はどこにある?
文脈の話だが、冒頭に戻るが、私はときどき哲学の記事を書く。誰かの哲学を紹介するのではなく、自分で考えたことを書く。そのとき心を自由にするために、書くためにまず、調べるという姿勢は取らない。ある哲学者について調べると、その文脈に飲み込まれるからだ。実際、生と死の弁証法について調べたら、「人称の死」に出会った。この概念、文脈に捕らわれて考えることはなるべく避けたいと思う。

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