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分人主義を批判する。分人と分人のあいだ

分人主義とは小説家平野啓一郎が提唱する思想で、個人というものはさらに細かく分人というものに分かれる。家族といる時の分人、友達といる時の分人、恋人といる時の分人、というふうに、私たちは一緒にいる相手によって自分というものが違うと感じる。誰といる時の分人が好きかで好きな人が決まると平野氏は言っている。私はその考えに基本的に同意する。
しかし、私の個人的経験を少し書いてみてこの分人の思想を批判してみたい。
私は幼い頃、門限が厳しかった。夕方五時の鐘が鳴ったらすぐに帰らないと、母親は家の鍵を全部閉めてしまい、私を締め出した。そうなると私は窓から見える台所に立つ母に向かって、泣きながら「ごめんなさい、もう遅く帰ったりしないから」と言うのだが、母は無視する。それを見ていた祖母が、窓の鍵を開けてくれる。すると母は、「お母さん、甘やかさないでください」と言う。すると祖母は「だって、かわいそうじゃないの」と言う。そんなことが何度もあった。もし、祖母が開けてくれなかったらいつまで締め出されていたかまったくわからない。私にとってそれは恐怖だった。
こういう背景があって、今回問題にしたい事件が起きた。
それは私が小学二年生のことだった。二クラスしかない同学年の男子の半数ほどで、一緒に遊んでいた。場所はおばけ屋敷と呼ばれる廃屋となった倉庫の中だ。座敷童が出るなどと噂があってみんなで確かめに行ったのだ。二階にある問題の畳の部屋を見たあと、私の発案で、屋根の上に登ってみることになった。ちょうど座敷童の部屋の外から柵を跨いでスレートの屋根に登れたのだ。そして、何名かで少し屋根の上でふざけたあと、戻ろうとしたときに、私の前を行く友達がふたり、屋根のスレートが割れて下へ落ちてしまった。私には突然消えたように見えた。後ろを歩いていた私は、スレートの下に鉄骨のある部分を選んで慎重に柵のある所に戻って座敷童の部屋から階段を降りた。下では大騒ぎになっていた。倉庫の中にふたりは落ちて血を流していると聞いた。私も倉庫の中へ見に行こうとした。しかし、怖かった。一瞬怯んだ。その瞬時に思った。「大人を呼んでこよう」。そうして私は何名かの友達を連れて自転車で一番近くの友達の家のお母さんを呼びに行った。しかし、留守だった。どうしようかと迷っていた時、五時の鐘が鳴った。私は瞬時に「帰らなきゃ」と思った。しかし、怪我をした友達を放っておくわけにはいかない。そこで私は考えた。「そうだ、僕のお母さんを呼んでこよう」。私は、ひとり自転車を漕いで、お母さんを呼びに家に帰った。家の玄関に入ると、自宅独特の匂いにフワッと包まれた。そこには普段と変わらない日常があった。母が夕食の仕度をしていて、祖父母がおり、弟がふたりいつものようにしていた。私はその空気に包まれた瞬間、安心してしまった。力が体中から抜けた。靴を脱いで家に上がると、あまりにいつもの平和な空気なので、母に友達が屋根から落ちたことを言い出せなくなった。時間が経てば経つほど言い出せなくなった。結局夕食を食べたあとくらいに誰かの親から電話があり、そのような事故があったことが母に知らされた。ふたりは救急車で運ばれ入院したそうだった。私は父と母に叱られた。なんで言わなかったの?と。それ以来、私はガキ大将から「あのとき逃げた奴」と繰り返し冷やかされることになった。
分人主義を使って考えてみたい。
私には友達といるときの分人と家族といるときの分人がはっきり違った。私はその違いをいつも意識していて、小学生の間は、友達を家に上げることはほとんどなかった。家の中の分人と学校や友達といる時の分人には大きなズレがあった。
それがこの事件の時、はっきりと現れた。なぜ、親に事故のことを報告しなかったのか?それは外での分人と、家庭内での分人がまったく違ったからだと考えることができる。外で友達と遊んでいた時の分人が母に報告をしに家に帰ったが、玄関に入ると、家庭での分人に変身してしまったのだ。家庭の分人は外で起きたことを報告できなかった。ふたつの分人は違う私である。では私には報告できなかったという罪はないのか?私とは何か?外の分人と家庭での分人を繋ぐものは何か?分人と分人の間にあるものは何か?責任はどこにあるのか?罪はどこにあるのか?結局、分人dividualではなく個人は分けられないindividualなのではないだろうか?分人というのはあるとしても、その複数の分人の総体が本当の私ではないだろうか?「本当の私はひとつではない」ではなくて、「本当の私は複数ある分人のひとつの集合体」と言うべきではないだろうか。極端な例を言うと、「殺人者の分人」と「誠実な会社員の分人」を持つ人がいて、その人の本当の自分は「殺人者の分人」でも「誠実な会社員の分人」でもなくそのふたつの分人を持つという、総体としての個人が本当の自分の姿であるのだと思う。「殺人者の分人」を持ってしまったが故に、その個人は殺人者と見做されるのは当然であり、一方で、誠実な会社員と見做されるのも当然なのである。
 
 
追記
個人的なことを書くが、あの事故でふたりのうちひとりは腕か肩を骨折し、ひとりは頭部を骨折するという重傷だった。そのあとふたりは私の親友になった。分人主義で言うと彼らといる分人が一番好きだった。小学生時代は私にとって本当に幸せな時代で、このふたりだけでなくあの頃の友達とはガキ大将(もう冷やかすなよ)も含め永遠の絆で結ばれていると信じている。

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