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ドーテイ・ヨンジュウ②人間の中身

四十にもなって童貞であることをあからさまにしてしまうことは、初めは抵抗あったし、公開してから少し後悔したけど、そのうち自分の中で何かが吹っ切れたような気がしたから、まあいいかと思い、第二弾を書くことにした。『「吹っ切れる」ということ』という記事で書いた意味での吹っ切れるとはちょっと違った意味での「吹っ切れる」だ。隠すものは何もないというこの開放感がいい。たぶんこんなことを息子が書いていると堅物の親父が知ったら激怒するだろうが、まあそれはほっといて、その親父がこの前、俺にこう言った「職場にいい子はいないのか?」それは親父が「職場にいい女の子がいたら紹介してくれよ」と言ったのではなく、俺の結婚について心配して言ったのだが、いやいや、親父よ、もう俺は四十だ、選ぶ方ではなく選ばれる方なのだよ、親父は三十くらいで俺の母と結婚したが、それも何度目かのお見合いの末だ、親父よ俺はあんたのようにお見合いはしないよ、だってそれじゃ面白くねーじゃん、美しくねーじゃん、生きてる意味さえあやしくなるぜ、生きてる中で出会って恋愛してこその人生だろ?まあ親父のお見合いを否定したら俺の存在を否定することにもなるかもしれないけど、それでも俺はお見合いは嫌だ、だから、俺は自分の相手は自分で見つける、なんて幼い頃から思っていてそのせいか、現在までそういう女には出会わず、結果『ドーテイ・ヨンジュウ②』という記事を書いているバカだ。職場にいい子はいないかって話だけど、実は俺はそれを狙って、介護職に就いたようなもんで、貧しくとも、安いアパートで幸せな家庭を築くのも悪くない、と思って就職して九年目、未だ彼女はできず、いや、俺はパートで夜勤をやらないからね、俺の勤めてる特別養護老人ホームの夜勤ってふたり勤務で、組み合わせによっては若い男女の場合もあって、それって親密になるチャンスだけど、俺はパートでなぜかと言うと統合失調症で、つまり精神障害者で夜寝ることが大事で、俺は「絶対徹夜はしない」と誓って二十年だからね、その禁則を破ったらせっかくの長い闘病生活がパーだからね、そこは絶対守りたくて夜勤はやれず、そのためパート扱いだ、パートのおっさんと正規職員の女の子が結婚したいと思う?自分よりずっと給料の安いおっさんとさ、まあ、そこはおまえに人間としての魅力がないからだと言われることになると思うんだけど、統合失調症だからかわからないけど、たぶんみんな俺が何考えてるのかわからないと思うんだよね、気持ち悪いっていうか、その自覚はある、相手の目を見て話ができないからね、でもね、九年もやってるとね、女の子と普通に話せるようになったことは進歩かなと思うんだ、そして、一緒に働いていると、女の子のことがよくわかるようになる、いや、付き合ったほうがわかると言われるかもしれないけど、例えば男しかいない職場にいる人で、女の子と話すのは夜のお店だけって男には、女の子のことは絶対にわからないと思うよ、だって商売でやってる女って所詮は商売だからね、客商売だからね、俺、わからないのが、芸能人とかでホステスと愛人関係になる男いるけど、アイドルとか女優とかと仕事してるのに、なんでわざわざ、銀座のホステスとか相手にするの?たぶんそういう男は女の子の愛し方を知らないんだろうね、いや俺童貞だった、で、俺はすでに四十を越え選ばれる側になったのだけど、パートでおカネがない、おまけに精神障害者ってのはスゲー男としてモテない要素強いと思うけど、男の価値はカネではない中身だと言いたいんだけど、今思うのは中身って何だろうってことさ、中身・・・って言うと、それは心だろって言われそうだけど、だから心って何なの?いや、わかってるよ、知識じゃないよね、中身あるいは心が知識だとしたら学歴が高いほど人間としての価値があるってことになって、それは絶対に違うと思うし、俺の職場ではたぶん俺が一番高学歴なのだけど、やっぱり男にしろ女にしろ職員と話していると教養のなさとか感じるんだよね、だけど教養がないからその人の価値が低いとは全然思わないし、第一俺の働いている介護の現場で一番仕事が出来る職員を決めるとしたら一番学歴の高い俺ということにはならないと思う、だから、人間の価値とは学歴でも知識でもないんだよ、中身あるいは心、だからそれは何だって話だけど、そう考えていると思い出した本の題名があって『実存と虚存』っていう上田閑照という哲学者の本なのだけど、実は俺はその本読んでないのだけど、「虚存」っていう言葉に大学生当時すごく惹かれて、でも怖くて読めなくて、なぜ怖かったかと言うと、俺は精神病に罹っていて、自分を無にすることばかり考えていたんだけど、それももう限界に来ていて、幽霊みたいになっていた自分に終止符を打って、精神科に掛かろうと思うようになっていた頃だから読まなかったと記憶している。で、その虚存という言葉は仏教、西田哲学あるいは東洋哲学をヨーロッパの現代哲学概念「実存」に対抗させた上手い言葉だと思ったから惹かれたのだけど、実存も虚存も哲学から離れて見れば暗くて不安になる概念だと思うんだけど、なぜかと言うと、日常を生きる平常心はじつは本当の自分ではなく本当の自分はもっとちがうところにあるなんて言うから、平常心であることが悪いことでそれを否定するとすごく不安になる、だから俺は実存主義や仏教やあるいは何でも論理的に追求しようとする哲学をやめて、精神科に掛かって脳を手術してもらうか、注射か、精神病院に閉じ込められるかして「治そう」と決めたのだが、精神科に行くと薬を出されただけで、手術も注射も入院もなく半年通院するとデイケアに通うことを勧められて行ってみるとそこには精神障害者がいっぱいいて出会いがあって、共に過ごし、病気という共通するネガティブな部分はあるけれどもそれなりに楽しい思い出を作れて、コミュニケーションの訓練にもなり、働けるようにもなって、今では健康な女の子たちとお喋りできるくらいまで良くなった、これすごい進歩だと思う。で、人間の中身とは何かって話だったと思うけど、この文脈だと「思い出」ってことになったりしそうだけど、俺は全然そう思ってなくて、思い出も知識と似たようなもので、つまりその人の過去のことだ、じゃあ、未来はってことになりそうだけど、将来の夢とかが中身なのかってことになるけど、夢は変わるものだしそんなものを中身だと言ったら誰だって夢さえ持てばいいってことになるけど、それは違う気がするし、中身はどうやって外から見ればいいのかって話になるけど、例えばその人に絵を描かせると、美しい絵を描く人か気味の悪い絵を描く人か、あるいは小説を書かせると人を暗くさせる小説を書くか人を明るくさせる小説を書くか、あるいは歌を作らせると暗い歌か明るい歌か、というふうに表現力のある人ならば、その表現したものが中身ということになりそうだけど、ほとんどの人はそういった芸術的表現力はなくて、だから自己主張とか言って他人と違う髪型や服装やあるいは車に乗ったりするんだけど、そうなるとそれは常識から見ると中身ではなくて外見であるということになる、ん?外見とは中身か?ここで俺は以前、『顔論』という記事を書いたことを思い出した。外見が中身ならば美しい顔をしている人が美しい中身を持っていて、醜い顔をしている人は醜い中身を持っていることになる、しかし、そもそもその美しい人とか醜い人とか決めるのが主観なのだから、そんなものは客観的真実にはまったくならない、あのギリシャの哲学者アリストテレスは「鷲鼻の人は鷲のように残酷だ」などと言っている、それを俺が読んだのは大学生のときの本屋での立ち読みだ、あれがアリストテレスの本気の洞察ならば、俺のほうがずっと顔に関しては洞察力があると思う。で、中身ってのは何かってことだけど、外見も中身に通じていると言えそうだけど世間の常識では外見は中身ではないということになっていて、それは実は外見とは必ず主観のレンズを通して俺たちの脳に入って来るから、俺たちは他人の中身など知ることはできないことになって、じゃあ、人はわかり合うことはできないって言うのかって言われそうだけど、まったくその通りわかり合うことはできなくて、少なくとも百パーセントわかり合えるのは不可能で、その代わり愛し合うことはできる、愛することは相手の外見や中身に捕らわれることなくできることだからね。いや、多くの人が外見や中身に捕らわれているけど、それはきっかけのひとつに過ぎないよね、じゃあ、結局美人が得じゃないかと言う女性がいそうだけど、俺はそんなこと一言も言ってなくて、俺がそもそも言いたいのは美人とかブスとか主観であって、洞察力次第では中身を見抜くことができると言いたいんだけど、その洞察もじつは主観の域から出ることはできないから、結局、愛することは信じることであって、これはものすごいパワーを持っているのだと思う。主観も客観も超えているからね。今回はこの辺で、バイバイ。

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