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プラトンの対話篇。楽譜としての哲学書

私はこの稿の題名を最初『プラトンの対話篇。録音機としての哲学書』としようとした。
なぜ録音機か?
それは師ソクラテスの言葉をプラトンは後世に残したく思い、なんとか声を保存できないかと考えたが、当時の技術では録音はできず、その代わり、書物にソクラテスの声を保存しようと思ったと考えられるからだ。それゆえプラトンの書物は論文ではなく対話篇というカタチになったのだろう。
しかし、声そのものは保存できなかった。その対話篇という機械の再生ボタンを押してもソクラテスの声は出てこない。代わりにその文章を音読する読者の声でソクラテスの語った言葉が演じられる。つまり対話篇は録音機というより読者の読み上げる楽譜なのだ。
私たちは録音機のない時代の音楽を直接聴くことはできない。ショパンやリストのピアノを直接聴くことはできない。彼らの曲を演奏する現代のピアニストの腕前を通してしか聴くことはできない。とはいえ、現代のピアニストとショパンやリスト本人たちの中で誰が一番の腕前かを私たちは知ることができない。楽譜は音を視覚化して譜面に書かれた物である。そして、それは演奏家が演奏することができる。

哲学書もそうだ。哲学書はそれを書いた哲学者を離れ、読者の思考力に委ねられる。世間の読者の中には哲学者が論じていることを正確に理解しようとする人もいるが、誰かの思考を正確に理解することなど不可能なはずだ。哲学書を正確に読み、その内容を世の中に説明しようとする学者は哲学者ではなく、「哲学学者」だ。プラトンの言おうとしていたことを正確に説明できる読者などこの世にいないに違いない。
いま、「プラトンの言おうとしていたこと」と言ったが、そもそもプラトンの対話篇はプラトンの言おうとしていたことが書かれた哲学書ではなかった。ソクラテスの言ったことが書かれた物だった。それが、ソクラテスのキャラが次第に自立し、自ら語るようになった。それはプラトンの中でソクラテスのキャラが自由に動き始めたということで、よく小説家やマンガ家の中で「キャラが勝手に動いてくれる」という現象があるが、まさにそれがプラトンの中で起こり、ソクラテスが勝手に、実際言わなかったことも言い始める。初めは、プラトンがソクラテスの声を残そうと書き始めたものが、この時点では、自分の哲学をソクラテスに語らせている作曲者プラトン、演奏家ソクラテスとなる。

プラトンの主著『国家』では、ソクラテスの一人称で語られ、プラトンではなくソクラテスの哲学が語られている建前になっている。つまり、読者はソクラテスが言っていることは読めるが、プラトンが本当にソクラテスに100%プラトンの哲学を語らせているかはわからなくなっている。従来『国家』はプラトンの哲学が書かれているものとして読まれてきたと思うが、実際はプラトンの中でキャラが自立したソクラテスの言葉なのだ。もちろんプラトンの中のキャラの言葉だからプラトンの思想ではある。しかし、それは、ソクラテスというプラトンの一部の言葉に過ぎない。『国家』は作曲家プラトンの楽譜であり、最初の演奏者がソクラテスだった。いや、ソクラテスのオリジナルの演奏をプラトンが譜面に写したものと言える。
ソクラテスに一人称で語らせることで、プラトンは常にその背後に後退して、哲学者は二重化される。読者は、演奏者の背後に作曲家がいるのを感じて聴くように、演者ソクラテスの背後にプラトンの存在を感じながらソクラテスの言葉を読むことになる。
そして、哲学書であるため、音読でも黙読でも関わりなく読者は聴くものであると同時に演者でもある。つまり哲学する主体でもある。プラトンという作曲家を自分流に解釈し、演奏するピアニストでもある。

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