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哲学書を読むということ

私は子供の頃は読書をしなかった。私の読書遍歴は中学三年生で読んだ手塚治虫のマンガ『火の鳥』から始まった。それまでは、『コロコロコミック』『少年ジャンプ』のマンガくらいしか読まなかった。もちろん『火の鳥』もマンガなのだが、人生や宇宙、宗教、哲学などを考え始めたのは『火の鳥』からだ。そして、高校生になって、しばらくマンガの名作と呼ばれるものばかり読んだ末、一年生の秋に司馬遼太郎の『燃えよ剣』を読んだのが活字の本を読み始めたきっかけだった。その本はおじいちゃんの本棚にあった。それから私はお小遣いで『竜馬がゆく』を買った。お小遣いで活字の本を買うのは初めてだった。
しかし、それからブランクが空く。私は統合失調症という精神病に罹ってしまい、読書が出来なくなってしまった。それでも真実の探求心はあって、高校の倫理の用語集をむさぼり読んだ。ブッダやサルトル、ハイデガーなどに興味を持った。しかし、それらの著作を読むことはなかった。病気であったことが大きな理由だが、哲学書を売っている本屋が近くになかったことも理由だったのだろう。都会と田舎の格差だ。
私はサルトルに関心はあったが、上記のように彼の著作は読まなかった。倫理の用語集で「実存は本質に先立つ」という彼の言葉を知ったが、意味がわからなかった。「実存」も「本質」も同じ意味じゃないかと思った。
私は都会の大学の哲学科に進学した。そこでようやく哲学書を読むようになった。まだ、統合失調症は回復していなかった、というか、精神科を受診していなかった。私は病んだ心で哲学書を読んだ。細かい論理はわからなくてもその哲学書の大雑把なイメージを掴むことができればいい、くらいに思っていた。サルトルは読まなかった。私は哲学の知識は高校の倫理の用語集程度のものだったので、とにかくそこに載っていた哲学者の古典を読むことを重視した。岩波文庫の存在を知ったので、この文庫を全部読んでみたいと思った。
最初に読んだのはキルケゴールの『死に至る病』だった。薄い本だったからだ。これは大学の図書館で借りた。
次に読んだのはたしか、カントの『純粋理性批判』だったと思う。これは購入した。岩波文庫で上中下と三巻もある大著だ。ア・プリオリという初めて聞く言葉がたくさん出て来て、これはどういう意味だろう?と考えながら読んだ。訳では「先験的」と書いてあった。ようするに「生まれ持っての」という意味だと理解した。さらに読み進めて行くと、二律背反の論理のところを読んだ。これは込み入った論理で私にはすべて理解することはできなかった。例えば、宇宙空間の広さは無限か有限かという議論に、どちらも正しいとカントは言っているようだった。そして、そのような議論は答えは見つからず、学問はただ空間と時間という認識の形式の中で考えるべきだとカントは言っているようだった。そして、これがこの本で一番感動したことだが、我々が理解できる宇宙の真実はじつは宇宙の側にあるのではなく、理性の側にそのように理解できるようにア・プリオリに備わっているという、いわゆるコペルニクス的転回と呼ばれるカントのもっとも言いたかったであろう真実だ。私はこれを知ったとき、本当に理性が興奮し感動した。理性が感動するという経験は生まれて初めてだった。
次に読んだのは、アリストテレスの『形而上学』だった。岩波文庫の上下二巻を購入した。「始動因」とか「目的因」などという概念がおもしろく、とくに「目的因」というのはそれまでの私になかった感覚だったので目から鱗だった。人生の中には「なんのために」という考えがあるのはわかる。しかし、アリストテレスは自然の中にも「なんのために」という「目的因」を考えるところが独創的だと思った。それは例えば、なぜ芽が出るのか、花を咲かせるためである、というようなものだ。原因はふつう過去に求めるが、アリストテレスは未来にも原因があると考えているところが目から鱗だった。
ハイデガーの『存在と時間』も読んだ。岩波文庫で上中下巻あって購入した。しかし、訳が、ですます調で読みにくく、まったく頭に入らなかった。そのため通読したもののわからないまま、三年生になった。そして、ゼミで『存在と時間』を読むというクラスに入った。先生は複数の訳を持って来たが、基本は中公バックスの原佑訳のものを他の学生は持っていて、先生もそれを主にゼミを進めていたから、私は本屋に行って、中公バックス原佑訳の物を買った。たしかにこちらのほうが読みやすかった。私は『存在と時間』を改めて読んだ。その内容は、私に不安を与えるもので、精神を病んでいる私には毒であったが、体系的で素晴らしい哲学書であることは分かった。結論は常識的なことなのだが、その常識を本当に深くから分析している哲学書だった。
このように私は哲学書を著名な物を中心にひとつひとつ感動しながら読んでいった。なぜか、高校時代に魅力を感じていたサルトルは読まなかった。あの「実存は本質に先立つ」という言葉の意味はわからないままだった。しかし、大学卒業後にもう一度、アリストテレスの『形而上学』を読んだら、そこに「本質」という言葉の定義のような物が書かれてあった。大学生の頃は理解できていなかったということだが、人間の「本質」とは例えば大工の本質とは、家を建てることであり、家を建てているときにその本質が実現されるということだった。これを理解したとき、サルトルの「実存は本質に先立つ」の意味が私の中で明らかになり、目の前に新たな地平が開けたような気がした。「本質」とは職業などの肩書であり、「実存」とは人間本来のありようだ。とにかく、二千年前のアリストテレスを読むことで二十世紀のサルトルが理解できる、これはすごいロマンだと思った。
他にも、他の著作を読むことで、ある著作の内容を理解するという経験はあった。例えば、デリダの『グラマトロジーについて』を読んだときに、その中で、ルソーの『言語起源論』が語られていて、それは言語はいつからあるのかという議論なのだが、ルソーは、人類が誕生する前から宇宙には言語があった、その中に人類は生まれて来た、という考え方をしていて、これはまさにアリストテレスの目的論的世界観の考え方であり、さらにルソーの『社会契約論』もその考え方に則っていて、社会は人間が生まれる前から存在していたと捉えることができる。このように私は二千年以上離れた著作物同士がつながることに驚嘆することが何度もあった。

しかし、私はここ何年か哲学書を読んでいない。なぜなら、私は四十代に入ったからだ。四十代に入ったら哲学書を読まないほうがいいと言っているのではない。私は自身の精神病(統合失調症)から本気で自由にならなければならないと思い、この人生の最盛期と思われる四十代では、哲学書を読まずに自己実現すべきだと判断した。自己実現という言葉がすでに哲学に囚われているとも言えそうだが、現代的な常識の範疇の言葉として私は考えている。私は結局サルトルを読まなかった。この文章を書いている途中で、ウィキペディアで調べたら、サルトルの「アンガジュマン」という言葉は「政治参加」のことだと思っていた私は、「社会参加」であることを知り、今言った自己実現の意味でもサルトルは言っていることに気づかされた。それでも私は哲学書を読みたくない。なぜなら、今、ウィキペディアのサルトルについての記事を読んだだけで、少し不安感に襲われたからだ。この不安はおそらく、内面を論理で深堀りすることの危険性からくる。ニーチェは言う。「深淵を見つめる者は見つめ返される」
私は論理の深淵から抜け出し自由に生きたい。

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