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統合失調症からの心のリハビリはエクリチュール(書き言葉)からパロール(話し言葉)への階段

私は十六歳で統合失調症を患っていて、二十一歳で初診を受け、そのとき構想した心のリハビリを実践することで、四十三歳の現在に至る。心のリハビリは効果があり、精神の状態は二十年前に比べたら雲泥の差くらい良くなっている。完治したわけではないが、苦しさゆえに死にたいなどと思わず、生きていることが楽しいと思えるようになっている。

さて、今回の記事の題名にはエクリチュールとパロールという聞き慣れない言葉があると思う。このふたつの言葉はカッコ書きにしたように、書き言葉と話し言葉のことだ。「心のリハビリはエクリチュールからパロールへの階段」と書いた意味を、私が辿った、二十年をとくにその言葉のありように注目して考えてみたい。

私が十六歳で発病したとき、実感として外界と内界がひとつになり、内界のみになってしまい、外部とのコミュニケーションが上手く取れなくなってしまった。誰かと話すときも、相手の顔を見ず、自己の中に作られた相手のキャラクターに対して喋っていたように思う。これは独語を喋っていたにすぎず、ほとんどエクリチュール(書き言葉)を棒読みしていたような気がする。というのも、私は外に向かって喋ることができず、まず心の内に言うべき文章を書き、話す段になってその文章を棒読みするということをやっていた。だから、話された言葉はパロール(話し言葉)でなくエクリチュール(書き言葉)だったと私は認識している。統合失調症でコミュニケーションが上手くできなくなった人は多いと思うが、外へ向かって話す言葉パロールを喪失したと感じている人も多いと思う。パロール(話し言葉)を取り戻す過程が心のリハビリの中心となると思う。
ところで、理想の会話はどういうものだと読者の方は考えるだろうか?敬語がきちんと使える、例えば天皇陛下のお言葉のようなものを考えるのだろうか。私は敬語が上手く使いこなせることを理想としない。とくに統合失調症であればなおさらだ。私の理想の会話は友達同士のタメ口だ。引きこもった人でも意外と家族とは普通に話が出来るもののような気がする。しかし、引きこもった人は、友達がいないか少ないのではないだろうか。私も友達は少ない。で、私のその少ない友達のひとりに私の話をよく聞いてくれる中学時代からの友達がいる。私と彼とは毎年何度か飲む程度だが、なにせ古くからの付き合いで共通の話題も多い。私は彼との会話は自分の中の彼と話すエクリチュール的会話をしている。つまり、相手を前にしながら、目を合わせることなく、自分の中の彼のキャラクターに話すという独語的なスタイルで話す。それでもよく聞いてくれるいい奴なので長く付き合えるのだろう。
しかし、会話の理想はパロール(話し言葉)で相手に向かって話すことだ。それでも統合失調症という病気の性質上、いきなりパロール(話し言葉)で会話するのは難しいと思う。初めは自分の書いた小説のキャラが話すように、自分の中の相手に話すエクリチュール(書き言葉)的なスタイルで話すのもひとつのやり方だと思う。引きこもった人というのは、けっして外部と完全に遮断された世界にいるのではなく、例えば、ゲームをしたり、マンガを読んだり、パソコンをやったりと、外部とのつながりをその内側に持っていることが多いと思う。それはエクリチュールの世界にいるのだと言えると思う。私はエクリチュールの価値を否定する者ではないが、統合失調症を治そうと思うならば、外へ出て、近所の人に挨拶したり、どこか友達の集まる場所に赴くことが大事だと思う。福祉施設などはそのためにある。考えてみれば、健康な人が居酒屋とかスナックとかの狭い空間に集まってワイワイやるのは、会話が楽しいからだろう。居場所が広いか狭いかが問題ではないのだと思う。会話の仕方が問題なのだ。そして、心のリハビリをするにあたって最初はエクリチュール的独語的スタイルでの言葉の出し方でいいと思う。次第に話し言葉(パロール)に移行していけばいい。エクリチュールからパロールへの階段は長いかもしれないが、一段一段昇るのは自分の意志だ。統合失調症を治したかったら、意志を強く持つことが大切だと思う。「自分の殻に閉じこもる」という表現がある。これは精神病でない人でも感じていることだ。しかし、殻を一瞬にして破ることは難しいと思う。だから、私は殻ではなく階段の比喩を用いたい。この階段は天高く昇る階段である。雲の上まで行くには雲の中を通らねばならない。雲というのは薄っぺらな物ではなく、通過するのに時間がかかる。そこを耐えて一歩一歩昇って行けば、光差す雲の上の世界に行けると思う。

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