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剱岳を別山乗越から睨む私の初挑戦

私は独り、別山べっさん乗越のっこしから、真夏の朝日を浴びる剱岳つるぎだけを見ていた。
深夜二時に室堂むろどう山荘を出発し、暗い中、何度も道を間違えた挙句、ようよう別山乗越を登りきったのだ。
すると眼前に神々しくも黒く聳える岩峰、剱岳が現れたのだった。
今回の山行目的である山でありラスボス然としたその存在感に私は立ち止まり見蕩みとれるしかなかった。そして、前夜に山荘でもらっておいた弁当を食べるならばここだろうと思い食べることにした。
オレンジ色に輝く世界で、私は石がゴロゴロしている場所に胡坐をかいて、剱岳を見ながら弁当を食べた。
それは霊山の神秘と、弁当の世俗が混在した時間だった。
剱岳を見れば、神々しさが私の胸を打つ。
メシを口にすればその味に舌鼓を打つ。
私はこのときの弁当の中身を覚えていない。ただ、あの光景の中、独りでこれから登攀する剱岳を眺めていたばかりである。
この山は百名山で最難関と言われているらしい。
しかし、私の登ろうとしていた別山尾根ルートは剱岳では最も一般的なルートである。つまり最も簡単なルートである。
この山行前に私はネット動画で剱岳登山の動画をたくさん見ていた。そのうち半分はバリエーションルートと呼ばれる一般登山道ではない玄人の登るルートであった。また冬の雪に覆われた剱岳であったりした。そのような玄人から見れば、私の夏の別山尾根挑戦は素人のものかもしれない。人生の中でも大冒険のひとつだと言えば玄人から下に見られるかもしれない。しかし、私にとってそこは初めての剱岳である。落ちたら死ぬ命懸けの登山である。
登山とはどの山、どのルートで登るから価値が高いとか低いとか、そういうものではないだろう。
たしかに日帰り低山は初心者でも出来る。しかし、あるレベルの人にとって、登ろうとしている低山が初挑戦を意味するかもしれないし、またあるレベルの人にとっては、泊まりがけの登山が初挑戦の登山かもしれない。登山技術が上がれば雪山やバリエーションルートに挑戦してみたくなるかもしれない。しかし、このときの私には剱岳別山尾根が最も挑戦するに相応しいルートだった。
登山をする者は、いきなり世界の名峰に登るわけではない。
必ず低山から登るはずだ。
私も普段は日帰りで低山を登っている。一年に一度か二度程度、宿泊のある高山の山行をすることにしている。べつに山を極めようとも思っていない。少しずつ、難しい山に挑戦し、どこまで行けるようになるかを密かに楽しんでいる。難易度の高い登山は私の前に溢れている。
そして、この時、別山乗越から睨んでいた山は、剱岳だった。
私は弁当を食べ終え、荷物をまとめると、静かに立ち上がり、ザックを背負って、これからその頂に立とうとしている剱岳に目をやり、スーッと息を吐いた。
私は歩き始めた。

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