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午後の高草山に登る

今日は午前で仕事が終わったので、午後、近場の山である高草山たかくさやまに登った。
この山はしょっちゅう登っている。理由は、近いからというのと、焼津側から登ると焼津の平野を見下ろしつつ登ることができるので高度感が楽しめるからだ。近いからという理由をさらに説明すると、計画を立てる手間が省け、思い立ったときに行けるので、面倒くさがりな私にはちょうどいいのだ。

三時少し前から登り始めた。午後から登るのは初めてである。
いつも登りに一時間かかるのだが、今日は食べ物を持たず荷物が軽かったので五十分くらいで登れた。しかし、熱中症に警戒しつつ登ったのだが、風と日陰がなかったら、やられたと思う。服は汗でびっしょりになった。
登りはただ、今度登るジャンダルムのことや、熱中症のことを漠然と考えていたが、いつものように頭の中で言葉が巡ることはなかった。
これは非常にいいことだと思う。私は統合失調症という精神病を患っており、普段から頭の中に言葉が巡っている。
登りではジャンダルムの山頂で飲むつもりのカルピスのことなどぼんやりと考えていた。

高草山山頂に着くと私はいつものベンチに腰掛け、富士山を見ながらカルピスを飲んだ。

左の方にうっすらと富士山が見える
手前の平野は静岡市

私はそのベンチでしばらく過ごしてから、腰を上げて、別の場所でカルピスを飲もうと山頂を移動した。

この向こうが焼津側
高草山大権現

山頂で二十分くらい過ごしただろうか?
私はペットボトルのカルピスを一本飲み干してしまった。ジャンダルムでは同じように山頂でカルピスを一本飲み干そうと思った。
座ったベンチは私のお尻の汗で濡れた。それほどに汗をかいていた。
さて、下山しようと腰を上げた。午後四時になっていた。
下山は楽だった。頭の中は登りとは違い、活発に言葉が飛び交った。マンコのことなど、頭の中で喋っていた。バカである。
まあ、マンコはいいとして、言葉が頭の中を飛び交うのは健康上は良くない。しかし、このような文章を考えるには、登山中などに考えたことが非常に重要であったりするのだ。今日は「私は介護士であり、お年寄りの女性の陰部は毎日見ていて、例えばその割れ目に入った便を拭き取るのが私の仕事である、もし、それを性的関心から見るとしたら介護士失格である」などという一文で結んだが、そんな文章を書いて誰が感動するんだ?と思った。しかし、このような無駄な思考があらぬ方に展開していくことがある。三千メートル級の山に登るときなど、何時間も頭の中で文章を考え続けている。スケベなことよりは真面目なことのほうが多い。やはり登りの時よりも下りの時のほうがものを良く考える傾向にあると思う。私には読者の視点が取り憑いていて、その読者に語りかけるようにものを考える。下山中ずっとそんな感じなのだ。
山頂でゆっくりするときは、詩人になる。このnoteに『山の美学』というマガジンを作ってあるが、そこに載せる文章は私の渾身の作である。山で考えたことを美学として文章にまとめてある。ぜひ読んで欲しい。
今日は高草山山頂で、ほとんど何も考えていなかった。
下り始めるときに、最近登山系YouTubeで「膣男(ちつお)」という名の男性が世の中にはいるらしいことを知って、そのことを思い出しニヤニヤしながら歩いてたら、自分のマンコ体験を思い出して、それについての言葉が止まらなくなったのが、今日の無様な下山時の私である。
今日の文章は品がないので、『山の美学』には入らない。ジャンダルムではぜひ良い文章を考えて見ようと思う。私の登山の楽しみの内に、どのような言葉を自分の中から見つけ出すことができるかというものがある。
登山の楽しみは、登るというアクションの楽しみ、山の上で食べるという楽しみ、仲間と山で話をするという楽しみ、景色を見るという楽しみ、写真を撮るという楽しみ、テントで寝る楽しみ、登頂という達成感を得る楽しみ、いろいろあると思うが、その楽しみのひとつに「文章を考える楽しみ」を加えてみてはいかがだろうか?

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