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若者文化と小説家

新人文学賞などを取る若い小説家で、特に二十歳前後の小説家で、年輩の小説家などから、若い世代はこんなことを考えているのか、こんなことを知っているのか、みたいな目線で評価されることがある。
随分古い例だが、綿矢りさの小説で、「あいのり」というテレビ番組を「結婚相手を求める若い男女が同じ車に乗って世界を旅する番組」みたいに一般化して表現していたことがあった。同世代の私はそれを読んだとき、「ああ、『あいのり』だな」と思ったが、年輩の人はその番組の存在を知らず、若い人はそういうものを知っているのかと興味を持ったかもしれない。そのように若者文化を若者が二次創作的に書くことで、現代の若者有利な文壇の風潮があるようだ。たしかに、現代の若者を書くには現代の若者自身が書くのが一番かもしれないが、そういうことをやってデビューした小説家は、歳を取ると、小説の内容が少し手詰まりになるような気がする。それに文学を愛する若者から見たら、そういう若さを売り物にした小説は知的に見えないと思う。むしろ文学をやりたい若者はそういう若者文化から脱出したいと思うものだと思う。私も若い頃は若者文化についアンテナを張ってしまう自分が嫌で、大学生になって一人暮らしを始めたら、部屋にテレビを置かなかった。その代わりラジオを聞くようになった。私はラジオで宇多田ヒカルを知った。ミュージックステーションではない。ミュージックステーションという番組が今でもあるのか知らないが、あの番組が若者文化というか若者音楽の情報源だったと思う。私はあのような歌番組が、若者を愚かにしているような気がした。若者が画一化されている気がした。
今はどうなのだろう?ネットのこの時代、若者はどこから情報を得るのだろう?やはり、テレビだろうか?SNSだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいい。
とにかく、若者であるがゆえの愚かさを小説で武器にするのはちょっと芸がないのじゃないか、と私は昔から思ってきた。つまり普遍性だ。時代特有の若者文化を利用するのではなく、どの時代でも面白いと思われる物を作りたい。そう思って生きてきた。
小説はその書かれた時代がどんな時代だったかを知る手段としてよりも、人生や社会の普遍的な主題を考える手段としてのほうが価値のあるように思う。
だから、私は古典ばかり読んでいた気がする。
千年二千年、読み継がれてきた物にはそれなりの価値があると思うし、読み継がれてきたこと自体にその歴史的価値があると思う。
私はそんな普遍的価値ある小説を書きたいし、読みたい。

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