相手の目を見て話すことの大切さ
私は統合失調症のリハビリを兼ねて介護施設で働いている。
老人ホームなのだが、職場体験でお年寄りと話をして、これが仕事なら楽しいなと思い、実際に働くことに決めた。もちろん、病気の症状がある程度良くなってきていたことも理由としてある。その前段階として、コミュニケーションのほとんど伴わない、肉体労働を心のリハビリと考えてやった基礎があってのことだ。
で、現在の職場である特別養護老人ホームでは、人生の最後を過ごす年寄りを相手に仕事をしている。年寄り相手はもちろん、様々な年齢性別の職員と話すこともリハビリと思ってやっている。同僚には私が精神病であることを明かしていない。知っているのは事務系の人だけだ。だから、同僚は健常者として私に話しかけてくれる。
最近は同僚と上手くコミュニケーションを取れるようになってきた。もう九年目ということで、ほとんどが後輩であることも理由としてあると思う。健康上夜勤はできないためパート職員なのだが、昼間の仕事は、経験の浅い職員よりはずっとできる方だと思う。
そんな私だが、同僚と話をするとき、目を合わせて話すことができない。
私は中学生の頃から人の目を怖れるようになったと思う。
中学生の頃から今もつきあっている友だちが一人いるのだが、彼と親しくなったわけは、野球部で私の野球哲学を彼がよく聞いてくれたからだ。一方的に話していた。現在でもその関係は変わらず、彼は私の小説を読んでくれ感想を述べてくれる唯一の友だ。そんな彼の目も見て話せない。
先日、私のフォローフォロワー関係にある人とコメントを交わしたのだが、「文章でコミュニケーションを取るのは得意だが、実際に話すのは苦手だ」と私が述べると、「文章では一方的に話すことになるので、実際に対面して言葉をやり取りするのが本当のコミュニケーションだと思う」というようなコメントを頂いた。たしかに文章で一方的に語るのは本来の人間らしいコミュニケーションとは言えないな、と思った。
思春期くらいの若い時、私の時代は「ガンをとばす」という言葉があった。つまりケンカを売るように睨むことだ。そのような言葉は現在でも形を変えて生きていると思う。例えば学校の廊下で男同士ですれ違う時は、先に眼をそらした方が負け、みたいなのがあった。私はその戦いでだいたい負けていた。だから、その頃から私は話し相手の目を見ることが怖く、目をそらしてしまうようになった。
これからは相手の目を見て話すようにしたい。幸い、福祉の世界ではいい人が多い。眼があったからと言ってケンカを売られるようなことはない。
統合失調症はコミュニケーションの障害でもあると思うので、段階的にコミュニケーションが上手くなるように努力するリハビリが必要だ。
私の場合、現在、相手の目を見て話すという段階に来ている。
目を見て話すことが出来れば心が通じることになる。人間の生きている歓びとしては極めて大切な要素だと思う。
統合失調症にあることはチャンスだと思う。課題を見つけひとつずつステップアップしていき、自己を完成させることに限りなく伸びて行ける。統合失調症はそれを自覚しやすい状態にあると思う。中途半端な健常者よりは健康あるいは良い人生を目指してリハビリせざるを得ない障害者のほうが、課題に正面から向き合えると思う。
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