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北野武監督映画『首』の衝撃

*ネタバレあり
 
私が北野武監督の『首』を観て、まだ四日も経っていない。
その衝撃は私には強くあり、今日も仕事からの帰り道でこの映画について考えていた。
まず、最初の表題の題字が凄かった。墨書で画面の枠に収まりきらない「首」の一字。大迫力だ。そして、その字が朱く染まり、上部が刀で斬られたように直線で切られだらりとめくれる。まさに首が斬られる予感満載だ。私は「これは凄い映画かもしれないぞ」とワクワクした。そして、今日、わかったのだが、その題字の演出は、ラストのビートたけし扮する羽柴秀吉が、「首なんかどうだっていいんだよ」と言って光秀の首をそれが本物という確証もなく蹴飛ばすシーン。このセリフが題字の演出と直結する。これはあきらかに北野武監督が仕組んだマジックであり、この『首』という映画の肝となるところだ。「首なんかどうだっていい」・・・「『首』なんかどうだっていい」・・・「映画『首』なんかどうだっていい」つまりそういうことだ。この映画は、映画が自分自身を否定する映画なのだ。だから、題字からもう斬られている。
北野武は別の場所で、「映画に人生捧げるなんてバカげている」と言っている。彼は映画により世界的名声を確立した人間なのにそう言っている。こんな現実主義者は映画人の中に他にいないかもしれない。彼はお笑い芸人、漫才師である。マルチタレントである。そのマルチの中でたまたま映画が世界的に認められてしまった。彼は映画人という一面も持つが、北野武という人間に過ぎない。その一部に映画監督というか顔があるに過ぎないのだろう。
この『首』という映画には彼の若さを感じる。そして、すでに次の映画を撮っているらしい。聞いたところではどうも実験的な映画のようだ。宮崎駿ならばすでに引退を宣言している年だ。北野武は引退を宣言しない。テレビ出演をやめない。昔とまったくかわらない。
私は今、宮崎駿の名を出したが、今回の記事で問題にしたいのは映画の見方だ。上に書いたように、この『首』という映画のラストを考えたとき、noteの別の人の記事で読んだことを思い出した。その人の読みでは、光秀の首を蹴飛ばして、「首なんかどうでもいい」と言ったのは、トップなんかどうでもいい、つまり首長、社長などよりも大事なのは、その下で働いている多くの人々だ、と言う解釈だった。私はそのように読めなかった。だから考えてみたら、上に書いたように、映画『首』はどうでもいいという読みになった。
そこで本題だが、映画とは読むものだろうか?もう少し強調すると、読み解くものだろうか?北野武はあの映画にどれだけの意味を込めて作ったのだろう。例えば、冒頭で頭部のない死体の首を這うカニはどういう意味があるのだろう?私にはただあれは恐ろしさを強調するための演出だと思うが、頭のいい人はあれから何か意味を読み解くかもしれない。しかし、私が見たところ、北野武という人物はそんなにすべてに意味を込めるタイプではない。ただ、こうしたほうが面白いんじゃないか、という感覚と若干の哲学で作っているような気がする。哲学でバリバリに読み解くような作品は文学で言うと三島由紀夫の『金閣寺』みたいな奴だと思う。文学に例を借りたのは恐縮だが、私は読み解く映画を好まないから、そういう類いの映画は観ないのだ。宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』は読み解く映画だった。私にはつまらなく感じられた。宮崎駿も北野武同様、すべてに意味を込めるタイプではなく、想像力を存分に発揮して美しい世界を作る人だったはずだ。『となりのトトロ』を読み解くなんてバカげているだろう?あれは感じるものだ。ただ、森の中にあんなおばけがいたらいいな、と夢を持つことが大事なのだ。北野武監督の映画も、「わー、怖いなー、面白いなー、切ないなー、深いなー」とか感じて観るだけで読み解くのはナンセンスだと思う。それなのに、現代の批評や評論の影響を受けた国語教育のおかげか、多くの人が映画を分析し言語化しようとする。私は映画は言語化できないところを表現した映画が良い映画だと思っているので、良い映画を改めて言語化し直すことは映画作品自体から離れていってしまう行為のように思える。特に有力な読み手が現れその読み方が定説になってしまうほど作者にとって恐ろしいことはない。本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』を読んだあとで初めて『源氏物語』を読んだら、どういうふうに読めるだろう?それは宣長の眼鏡を通した『源氏物語』になってしまうのではないだろうか。
私はかつて大学で哲学科に属していて、その学科には美学芸術学のコースがあり、少しは美学芸術学に触れた。その学問は、絵画など芸術作品から自由に意味を読み取って、持論を展開するものだった。作者の意図とは違う読みをし、作品を持論を述べるための単なるネタにしてしまうのだ。あれでは作者はたまらない。しかし、北野武は自分の作品が過剰に読み込まれることを喜んでいるようなところがある気がする。ここでこういうワンカットを挟めば、みんなそれについてあれこれ考えるんじゃねーか、と直感で判断して、そのカットを入れるのだろう。『首』では秀吉が家康の草履を投げるシーンがあるが、そこで偶然、草履が池に落ちたそうだ。そうしたら北野監督は「あれも使えそうだ、撮っておけ」と言ったそうだ。そうやって彼の映画が作られていくのだから、むしろ、過剰に読まれることを予測した映画作りでもある。しかし、彼自身は全然映画評論家ではない。作る一方である。だがその感性はやはり天才的なものがある。天才とは古い言葉だが、彼には相応しい言葉だ。
長くなったのでこの辺りで今回はやめるが、また、北野武監督、宮崎駿監督の映画について書いてみようと思うので、フォーローしてくれたら幸いだ。
読んでくれてありがとう。

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