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お題『パンツ穿いてない眞言さんと気づいちゃった紅さん』

 台所に入ったこともない俺へ、紅は懇切丁寧に基本的な家事を教えてくれた。やかんでお湯を沸かす方法、洗いものの陶器を持つ時の力の入れ具合、米を研ぐ時に洗剤を使わないこと。
 洗濯機の回し方も、そのひとつだった。洗剤を入れてボタンを押し、洗浄槽が回転を始めた時の達成感。紅は大げさなほどに俺を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。
 今日の紅は、大学の後に仕事が入っている。迦具土の家を出てまだ社会参加のできていない俺は留守番だ。だから、せめて俺のできることで紅をいたわり、喜ばせたい。
 だから、いつ紅が帰宅してもいいように茶器を整え、脱衣場の洗濯機を回した。暑かったので風呂にも入ることにし、ついでに下着を洗濯機へと放り込んだ。
 暖かいシャワーを浴びて脱衣場に上がって、俺は頭を抱えた。
 ここ数日雨が続いていたから、アンダーシャツも下着も汚れたものが溜まっていた。だからこそ俺は洗濯をしておこうと思ったのだが――。
 紅と俺の分の下着を、すべて洗ってしまった。予備は一枚もない。
 いくら愛し合っていても、下着を共用するのは考えものだ。着の身着のままでこのマンションにたどり着いた俺に、紅は数枚の下着を買ってくれた。タグに『まこと』と書いてくれ、『俺たち、家族になれるね』と微笑んだ顔を、俺はいつまでも覚えていたい。
 ――いや、思い出で現実逃避している場合ではない。
 この家のすべての下着を呑み込み、モーター音を立てている洗濯機を止める術を、俺は知らない。よしんば止めたとして、濡れた下着はすぐには乾かない。絞ってから穿いても、不快感しか残らないはずだ。
 俺は覚悟を決めて、スウェットに直接脚を通した。これもまた、紅が俺に買い与えてくれたものだ。俺と紅とでは腰回りや脚の太さが違うので、当初貸してくれたジャージはぱつぱつだったのだ。
 これでなんとかなる、はずだ。夜伽を断るのは心苦しいが、恥を上塗りするよりはいい。
 苦心の末の浅知恵に満足していたら、ダイニングの電話が鳴った。受話器を取り、
「多禄丸だが」
『あー、やっぱりこれ、いいね。結婚したみたい』
 紅だった。
『八時には帰れると思う。何か買って帰るから、お腹減っても少し我慢してね』
「……わかった」
 俺はうなずいて受話器を置く。洗濯機が終了の電子音を鳴らしたので、俺は脱衣場で洗濯機の蓋を開け、紅のボタンダウンシャツ、ジーンズ、アンダーシャツ、下着を順番にハンガーや折りたたみピンチに干していく。固く脱水されている下着は、やはり今すぐ穿くのには適さない。
 ため息を吐いて、ベランダにハンガーたちを運び、物干し竿に干す。
 一人の時間は戻ったが、そうそう落ち着けるものではない。何しろ、男の急所を守るべき鎧が奪われているのだ。綿一〇〇パーセントの頼りない鎧だが、それでも急所の防衛には有用で有益である。
 紅がマガジンラックに残した、男性向けファッション雑誌を開く。紅は表紙を飾り、己を見る者たちを鋭い視線で見つめ返してくる。
 深淵を覗くものは同時に深淵から覗かれる覚悟を決めなければならない。そのようなメッセージ性のあることは理解できるが、俺の感想は一つだ。
(俺の恋人は世界でいちばん顔がいい)
 うっとりと満足し、ページをめくって紅を追う。紅はメインの特集も任され、何人かのモデルたちとともに誌面を飾っている。
 鳶色の瞳に吸い寄せられ、俺はしばらく何もできずに紅の仕事ぶりを見つめていた。
 やがて夜が更ける。玄関ドアが解錠された。俺はそのかすかな音を逃すことなく、キッチンのドアを開けて玄関ポーチへ飛び出した。
「ただいま、眞言、……」
 テイクアウトの食事を片手に提げた紅は、言葉を止める。普段なら俺を讃える言葉を何かの呪文のように終わりなく唱えるものだが……。
 この沈黙は、いつものものと質が違う。紅は俺の全身を舐めるように見て、やがて不思議そうに口を開いた。
「眞言、君、なんで穿いてないの……?」
 どきり。心臓が高鳴る。
「な、なんのことだ……」
「いや、パンツ。穿いてないでしょ」
 なぜばれているのか。俺の頬は紅潮し、額からはだらだらと脂汗が垂れる。
「その、あの……」
「スウェットのシルエットでわかっちゃうんだよ。それとも、君さ……」
 紅は食事の入ったビニール袋を下駄箱の上に置き、三和土の分だけ低い位置から俺の腰を引き寄せる。
「俺のこと、誘ってる?」
 に、と白い歯を見せる紅の表情は、雌の挑発に乗る雄の獣のようにみだりがわしく、それでいて美しい。
「あ、いや、そんなつもりでは」
「可愛いね、眞言」
 紅は俺の耳へ熱っぽく囁いてから、ぱっと手を離した。
「――なんて、冗談だよ。君もお腹空いてるでしょ、ごはん食べよう」
 つい先ほどまでの妖しさが嘘のように、爽やかな顔で俺を見る。紅は顔面筋を含めた全身の筋肉で生計を立てている男だ。
 しかし、今の俺にはそのことを深く考える余裕がない。
「……冗談だったのか」
「え」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
 首を振る俺を、紅は再度抱きしめた。
「なっ……食事を摂るのではなかったのかっ……!」
「だって君がこんなにつたなく可愛く誘ってくれてるんだよ? 男なら乗らなきゃダメだよ」
 俺を抱いたまま、紅はらしからず乱雑に靴を脱ぎ、三和土に放る。
「ごはんは終わった後であっためればいい、君が食べられないようなら俺が食べさせてあげる」
 紅はすごぶる上機嫌だ。確かに望んでいないことではないので、俺もついその腕に応えてしまう。紅の背からは、香水のラストノートのムスクと、ほんのりとした汗の香りが溶け混じっていた。その色気にくらくらする。
「……あぁ、君の目が言ってる。俺が欲しいって」
 その言葉を否定する理由はない。体躯で勝る俺は、力任せに紅の美躯を引き寄せた。


 ピロートークでことのあらましを話したら、紅は盛大に笑った後、
「君の成長を目の当たりにできて嬉しいよ」
 と、母親のようなことを言った。怒ってもいいのだろうが、俺は早くに亡くした母のことをおぼろげに思い出した。いくつもの種類の愛情を与えてくれる紅とめぐり逢えたことに感謝したい。

写真素材:https://www.photo-ac.com/

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