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インド料理人ムゲーシュがレストランに離職を告げた日。2020年6月14日。

その昼下がり、ぼくは西葛西のアムダスラビーのスタッフルーム(いわゆるタコ部屋であり、マンションの一室)で、東日本橋店のガネーシュクマール・シェフとふたりで缶ビールを飲み、かれが作ってくれた、厚手のアル・パロタ、リッチなグレイヴィーの2種のチキンカレー(トマトベースとココナツベース)など食べながら、まったりしていたものだ。するとガネーシュクマールが、アムダスラビースタッフ専用のLINEをぼくに見せてくれた。
そこにはムゲーシュのこんな言葉があった。
”Good morning,mom.
This month end, I will quit my job.
Sorry my decision."


ムゲーシュ、辞めるのか!?? 給仕のサントーシュが言うには、きっかけはムゲーシュが2番手のステファン・ラジと大喧嘩したことだそうな。ステファン・ラジはこれまでずっとムゲーシュの独裁に我慢してきたことの、その鬱憤がとうとう爆発したようだ。


ムゲーシュの料理は、ワダ、ラッサム、サンバル、イディリ、チャトニが抜群に巧くさまになっていておいしく、他の料理は大雑把で当たり外れがあって、デザートは二番手のステファン・ラジがかっこよく洒落たものを作っていた。それでもムゲーシュの料理には若さがあって、毎回料理を食べるのがたのしかった。インドの定食屋料理としては申し分なかったし、ステファン・ラジのデザートがそこに気品を添えた。なお、当時ぼくは土日のランチブッフェの、店外黒板に料理名を書いたり、ブッフェの料理に添える料理名プレートを担当するヴォランティアで、インド人経営者夫妻はともあれ、スタッフ全員と仲が良かった。



前任シェフの(背は低いが巨漢で自身の糖尿病を気にもとめなかった)ディナサヤランは自分の料理のウデを自慢するために、当時二番手だったムゲーシュをガキ同然に扱った。ムゲーシュは人知れず、泣いていた。なお、ムゲーシュは当時30歳前後で前腕の内側に女が股を開いたタトゥーを入れていて、お茶目で明るくたしかにガキっぽく、風呂は長いが気は短い。ムゲーシュは無駄に大卒で、IT関係職をめざしたものの、しかしおれには向いてない、とサーヴィス業に転じ、インドのリゾートホテルに就職した。なるほどムゲーシュのベッドメイキングはプロ級だ。ムゲーシュは料理学校へ通ったこともないままに、ホテルで各ポジションをまわるなかで、レストランに配属され、やがて料理人人生を選んだ。ムゲーシュはハリウッド映画好きゆえ英語も流暢で、おまけにムゲーシュは口数が多いと言うか、むしろ大阪弁で言うところの「いらち」で「いちびり」で「要らんこと言い」である。そのうえムゲーシュは喧嘩は弱い癖に、毒のあるユーモアを他人にぶつけるのが大好きだ。しかも誰と接するときでも、マウントを取りたがる。「おまえよりも、おれの方が偉い」と遊び半分に見せつけたいのだろう。こういうところにムゲーシュの自我の脆さが透けて見えもするし、また、こういう気質によって、ムゲーシュは孤独になってもゆくのだけれど。


とはいえ、機嫌のいいときのムゲーシュには愛嬌もあるし、経営者のゴヒル夫妻と話すときには上手な英語でちゃっかり好青年を演じもすれば、お客さんと接するときにも愛想が良く、ムゲーシュはお客さんにムゲーシュ・ファンをけっこう作った。ざっとそんなふうにムゲーシュはいかにもアンバランスな、そして見るからに隙だらけの男だけれど、しかし、もしも巧く美質を伸ばし上手に欠点を抑えこんでゆければ、ムゲーシュは幸福になれもしただろうに。


2019年6月半ばアムダスラビー東日本橋店が開店すると同時にガネーシュクマールがそちらへ行き、ムゲーシュがひとりで西葛西店のシェフになった。以来かれは「おれさま気質」丸出しのコントロールフリークになって、ラジャ・イン・ザ・キッチン(厨房の藩王)をやるようになった。「あれをやれ!」、「それはやるな!」、「これをやれ!」、「それはだめだ!」、二番手も給仕も朝から晩までムゲーシュに命令されるのだ。これはちょっとかなわない。ほんらいレストランは「美食の工場」であって、あらかじめ食材を買い揃え、料理の部品を作っておいて、注文が入れば、部品を併せて仕上げ、客の食卓に料理を届け、客が食事を終えれば、お代を頂戴する場所である。必要最低限の言葉で、すべてが巧く回るのがあたりまえである。もしもそのプロセスのいちいちに、料理長の趣味判断による気分次第の罵声が飛ぶならば、それは仕組が巧くできていないのであり、結局それはシェフの未熟というものだ。むろんそんなむちゃくちゃな環境では、スタッフの心はすさむばかりで、レストランはまともに営業できるわけがない。


ムゲーシュにしてみれば、はじめてシェフになったことで、責任感を強く感じたのだろうが、しかしその自負は(残念ながら)空回りしていた。
あるいは、ムゲーシュは太っちょのディナサヤラン料理長の二番手時代に、さんざん泣かされたそんな不遇時代の、反動が出たのかもしれない。ディナサヤランは自分でムゲーシュを二番手に選んだにもかかわらず、しかしかれはムゲーシュをさんざん無能呼ばわりしたものだ。なお、ムゲーシュはこの、誰が見ても気の毒な時代に成長した、と言えないこともないけれど。いずれにせよ、スタッフはみんなムゲーシュの幼稚な独裁を心底不快におもっていたので、今回のふたりの喧嘩で、給仕のサントーシュも、ガネーシュ・クマールもまた、ステファン・ラジの味方についた。(なお、賢明にも給仕長のサプコタ・チャビラルは内心はともあれ表面上は中立を保った。)こうしてムゲーシュは完璧に孤立し、シェフとしての指揮系統はまったく機能しなくなった。自分の言うことに誰も従ってくれないならば、シェフなどできるわけがない。こうしてムゲーシュは居場所を失った。喩えるならば、ムゲーシュは単独シェフ体制になって丸一年めに、クーデターを起こされて失脚した。


関係者のあいだには、「ムゲーシュの自意識を肥大させたのは、ジュリアス・スージー、おまえのレヴューだ」という非難の声もある。言いたいことはわからなくもないけれど、しかし、ムゲーシュの離職に先立つ7カ月まえ(前年12月)から、ぼくはムゲーシュとつきあいはしなかったし、ぼくはアムダスラビーに顔を出したこともなかった。





経営者は除外するとして、レストランスタッフたちのあいだには〈誰かが困っていれば誰かが助け、また別のときにはかつて助けられた者が、
誰かを助ける側にまわる〉、そんなgive and take の関係が成立している。たとえば、誰かがどうしても仕事を休まなくてはならない事情があるときは、別の誰かが自分の休日を潰して働く。また、店を閉めた後や休日にスタッフ何人かでヤキトリ屋に飲みに行くにしても、あるときは誰かがカネを払い、別のときはほかの誰かが払う、そんな〈奢りの循環〉が慣例になっている。かれらにとって異国の地で生きてゆくために有用なさまざまな情報もまた、当然のこととしてシェアされている。ついでながら、かれらがぼくをいわばかれらの賛助会員のように遇してくれるのも、ひとつには、東京で生きてゆくうえで、日本語ができる友達が必要だからである。ぼくがかれらになにかしてあげると、かれらはぼくにビールや料理をふるまってくれる。それがかれらの、(いかにも流動的で不安定な小社会における)、相互扶助にもとづくセイフティネットなのである。ところがムゲーシュは、職場で幼稚な独裁制を敷くことによって、みんなから嫌われ、ムゲーシュはこの相互扶助の関係の輪から排除されてしまった。


もしも新型コロナウイルスの流行がなければ、ここまでひどいことにはならなかったかもしれない。なぜって、売り上げが悪くなると真っ先に責められるのがシェフである。アムダスラビー西葛西店は、自粛が要請されるまでは通年にわたって立派な売り上げがあったものだ。しかし、インド人経営者夫妻が燃え盛る野望とともに信じがたい大胆さを発揮して、ろくに人もいないどころか猫一匹歩いていない東日本橋のはずれの地下に店をこしらえて、案の定毎月毎月赤字の山をこしらえても、しかし、それを十分補填して余りある稼ぎを西葛西店はあげていたものだ、自粛以前には。また、西葛西店の自粛以降においては、誰がどう見ても、最悪なのはむしろマネージメントだった。だって、この自粛期間アムダスラビー西葛西店は、休業期間を取ったのみならず、再開後も(地下店舗ゆえ)営業しているのか休業しているのかさえほどんどわからなかったものだし、
また、あの時期の弁当販売にしても、1000円/1500円の価格設定であり、せめて700円の弁当もまた売るべきではなかったかしら。そしてせめて路面に、「インド弁当販売中」というようなノボリのようなものが必要だった。まったくもってプロモーション不足で、あれで商売が成り立つはずもない。



しかし、事情はどうあれ、経営者に責められるのはつねに現場のスタッフだ。かれらの賃金は気の毒なほど安く、実質上は日本の労働基準法違反であるにも関わらず帳簿上だけが適法なのだ。(なお、ムゲーシュにも妻も息子もいて、そして他の雇われインド人料理人も給仕もまたその不当に安い給与の大半を家族に仕送りしていて、残るカネは煙草代とビール代くらいかない。)他方、経営者は、日本政府から家賃支援給付金最大600万円を貰う気まんまん。雇われ労働者たちもまた、日本政府からの給付金10万円もあるし、それで足りなきゃ区の特別貸付を利用しろ、数十万円は無利子で借りられるぞというわけ。


なるほど、それはありがたい制度ながら、しかし、料理人のプライドは粉々である。そもそもムゲーシュはシェフになれば給与も上がるだろうと期待したものの、しかし、それもなかった。さぞや悔しかったろう。こうしてスタッフの心はそれでなくても殺伐とすさみきっているところへもってきて、ムゲーシュはその溜まりに溜まった鬱屈を二番手のステファン・ラジにぶつけまくって、結果、とうとうステファン・ラジがキレたのだろう。


ある休みの日、ムゲーシュはひとりで臨海公園へ行き、ひとりでダイヤと花の観覧車に乗った。
ムゲーシュは中空から、ビルの群れ、荒川放水路、スカイツリー、アクアライン・・・を眺めた。「おれはいったいなにを求めて東京にいるのだろう?」と、ムゲーシュがおもったかどうかは、ぼくは知らない。



ムゲーシュの料理には、独特の若さがあった。
かれのラッサムとサンバルはなんともすばらしく南インドらしい。Idlyも巧いもの、チャトニもビシッと決まっていた。その反面、たとえばムゲーシュによる野菜のカットは粗っぽく、必ずサイズがまちまちだった。またムゲーシュのチキンカレーやマトンカレーの煮込み時間はいくらか短かすぎた。もう30分煮込めばそうとうおいしくなるのに。おまけに、南インド料理には用いない北インド料理の基本的技術ながら、chopped masala (刻みタマネギを炒めて、刻みトマトと一緒にさらに炒めて、グレイヴィーソースのベースを作る)のテクニックを、けっしてムゲーシュは使えなかった。ビリヤニは、たまにムゲーシュが本気を出したときだけ、たいへんすばらしかった。もっともムゲーシュが手を抜いた日のビリヤニとて、そこそこにはおいしかったものだけれど。ざっとそういうふうにムゲーシュは基本的技術がやや凸凹で、しかもムゲーシュのムラッ気(capricious behavior)が料理にもまたよく現われていた。
しかしながら、そんな弱点も含めて、ムゲーシュの料理はおもしろかった。とくに土日のランチブッフェは毎回、どんなラインナップになるか、わくわくしたものだ。比較するに、アーンドラグルプや三燈舎、そしてINDUの料理にはぼくはただただ感動するばかり、それに対して、ムゲーシュの料理にはあれこれのツッコミどころを含めて、いつもその日そのときならではの、小興奮をぼくや常連たちにもたらした。



あるいは、もしももっぱらムゲーシュの側に立つならば、ムゲーシュはあの信じがたい安月給でよくがんばったし、しかも多くのファンも作った、
偉いものじゃないか、と言えないこともない。


おもえば、アムダスラビーはもともとTMVS FOODSの経営者ピライ・マリアッパンが作ったものだ。そしてかつてぼくはピライの相談役であり、アドヴァイザーだった。初代シェフはマハリンガム、二代目シェフは、ヴェヌゴパール(現・錦糸町ヴェヌス)三代目シェフは、ディナサヤラン。(このときムゲーシュは2番手としてアムダスラビーで仕事をするようになった。)やがて、経営者が某夫妻に替わり、四代目が、ガネーシュクマールとムゲーシュの2人シェフ体制。そして2019年夏、経営者夫妻が東日本橋店を作るとともにガネーシュクマールが東日本橋勤務になり、同時に、西葛西店はムゲーシュ・シェフ体制となった。ぼくはどの時期にも愛着があるけれど、レストランが売れ出したのは、ガネーシュ・クマールとムゲーシュのふたりシェフ体制になってからのこと。根強い常連さんたちの支持があり、ファンが増え、さらにはおもいがけない幸運が舞い込んだせいでもあったにせよ、そこにはやはりガネーシュクマールの熟練の技術と、そしてムゲーシュのいかにも若々しい無鉄砲で明るい魅力が貢献しただろうことは疑い得ない。


ぼくとしては、ムゲーシュはやや不安定な基礎をいまのうちにしっかり固めて、そして大きな料理人に育って欲しかったけれど、残念ながらそうそう巧いことにはならなかった。しかし、結局はそんなことなどどうでもいいことだ。なぜって、人は誰も他人の期待に応えるために生きているわけではないし、誰の人生とて、そうそうとんとん拍子にゆくものではないもの。とはいえ、たいへん残念な幕切れだった。



ぼくはムゲーシュとよく遊んだものだ。行船公園でビールを飲んだり、一緒に古着屋を覗いたり、服を交換したりもした。ムゲーシュにさんざんねだられて、ぼくはかれにしぶしぶ革製のサイドポーチをプレゼントしたこともあった。休日の外食はサイゼリヤや鳥貴族が多かったものの、浦安のイタリアンレストランへ食べに行ったり、麻布のワインバーに遊びに行ったりもしたものだ。ある夜はふたりでしこたま酔っ払って、ぼくがギターを弾きながら、即興の歌を歌いながら、ムゲーシュが合いの手を入れながら、ふたりで夜の西葛西を散歩したこともある。いくら酔っ払っていたとはいえ、ムゲーシュがいなかったならば、ぼくはけっしてそんなことはしなかったろう。ぼくはあの夜、楽しかった。まるで二十歳の頃に戻ったみたいだった。それはもちろんムゲーシュのお陰だった。結局ムゲーシュは、常連さんたちにも、そしてぼくにも、ひとことの挨拶もなしに、消えてしまった。ま、もともとそういう奴だということはわかっていたけどさ。


ムゲーシュがLINEに告げたメッセージ、
”Good morning,mom.
This month end, I will quit my job.
Sorry my decision."
それに対する経営者婦人の返事は、
"OK." ただ一言だった。

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