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ソヴィエト連邦崩壊前後のロシア人の精神的大混乱。ヴィクトル・ペレーヴィン著『チャパーエフと空虚』(群像社刊 2007年)書評

いまにしておもえば1985年からはじまったペレストロイカは、ソヴィエト連邦崩壊のプロローグであり、同時にロシアの二十世紀末におけるしっちゃかめっちゃかなどんちゃん騒ぎのはじまりでもあった。かの地の人びとにとってペレストロイカは、言論の自由が許され収容所に送られる恐怖はなくなったものの、しかし、他方で経済効果ははかばかしく上がらず、未来への希望を感じられない沈鬱をもたらした。そんな気が滅入るモスクワの街に、ロックンロールが、パンクが、ヒップホップが流れはじめ、若者たちはスケボーに熱中し、人民はマクドナルド一号店に行列をつくった(行列には慣れっこだった)。すでに1980年代後半ロシアは経済的にも文化的にもきわめて混乱していた。だが、まさか国家が消滅するとまでは誰もおもわなかった。しかし、消滅の日はおとずれた、1991年のクリスマス、モスクワのクレムリンから鎌とハンマーの赤い旗が消えた。解放政策をとなえたゴルバチョフ大統領は辞任し、七十年間の歴史を誇るソヴィエト連邦は消滅した。




むろんかれらは、それまでの価値観のすべてを否定し、資本主義を受け入れるほかなかった。七十年にわたるソヴィエト連邦の歴史はなんだったんだろう。未来への不安は激増。いたるところで巻き起こる大混乱のなかで、文化の「入超」がつづく。たとえば文学の領域では、それこそ実存主義からビートニクからポストモダニズムから、それまで西側の退廃文化として知らされていなかったミステリから、なんでもかんでも一気に入ってきた。ロシア人作家たちはそれらのすべてを目をらんらんと輝かせて息せききって受け止め、しかもそれらのすべてを血肉化しようとしていった。これでは統合失調症すれすれに、ならないほうがおかしい。こうしたロシア文学の二十世紀末の大混乱の時期を象徴するスター作家が、ヴィクトル・ペレーヴィンであり、そしてかれの代表作が、この、なんともとらえどころのない、悪夢的で、シュルレアルで、ユーモラスで、これみよがしなまでにポストモダンで、とっぴょうしもない、『チャパーエフと空虚』なのである。



『チャパーエフと空虚 』は、ソヴィエト連邦が崩壊して五年目の、1996年、著者三十四歳のときの作品である。なんとも途方もない小説である。好き嫌いが大きくわかれるだろう、なぜって主人公の性格があいまいではっきりした性格づけがなされていないから読者はかれに感情移入しにくく、また叙述はふたつの時間を往還する。しかもふたつの物語は並行して進みながら、物語は、主人公の治癒と退院をもってエピローグを迎えるものの、ふたつに分岐しながら進んできた物語は、最後にいたってなお統合を与えられはしない。




いや、結末のつけかたに限らず、そもそもこの小説は、読者が読んで、頭のなかで、読者自身の手でなかば構成をしあげるように、どこか読者を信頼し、最後の仕上げを読者にゆだねているような書き方がなされている。けっして著者は文章を中途半端に放り出しているわけではない、それどころか文章は入念にしあげられている、構成も入念で、ぬかりはない。それであってなお著者は、物語をあえて読みやすい完成形で示さず、読者が自身の頭のなかで構成したとき、完璧な構成にいたる、そんなゲームとして、この作品を提示しているようなふしがある。読者の知性に対する期待がひじょうに高い書き方である。したがってこの作品は、一方でロシアの二十世紀末のポップ・ポストモダニズム・ノヴェルとして大量消費されながら、同時に、味にうるさい世界中の現代文学グルメたちからも、大いに論評の対象になってもきた。それだけ多くの批評を引き出す力がこの作品にはある。




統合失調症患者の見る夢のような話でね、ソヴィエト連邦の黎明期と、ペレストロイカ以降の現代という分裂したふたつの非和解的な世界に、むりやり連続性を見出そうとして、それどころかなろうことならば統合を夢見さえする物語だ。そう、この物語は、引き裂かれ、分裂したふたつの世界を、色即是空の仏教哲学でつなごうとする。ひらたくいえば、形あるもの(物質世界)は、すべて空(void)であるという考えであり、現実はどれだけ猫の目のように変わろうとも、そもそも現実そのものがヴァーチュアルリアリティと同じなのである、という思想である。



タイトルにあるチャパーエフとは、ロシア革命後の国内戦で勇名を馳せた伝説の軍人のこと。実態を離れた調子のいい評伝が書かれ、国民を感動させる映画が作られて映画の黎明期に爆発的にヒットしたため、全ソヴィエト的ヒーローになった、もはや実在の人物やら虚構の人物やら見分けがつかないような存在らしい。他方、「空虚」というのは、この小説の主人公の名前、ピョートル・プストタの、プストタのこと。(ちなみに英訳版では、主人公の名前を、Pyotr Void と訳している。)"void"、そこになにものをも容れることができる空っぽの空間。空虚。無効。ま、「からっぽジョニー」みたいな名前の、主人公だ。そしてこの主人公のからっぽが、一方でロシア革命の一年後、伝説のスーパー軍人チャパーエフの従者としてソヴィエト連邦黎明期の内戦に参戦もすれば、他方で現代のソヴィエト連邦崩壊後のロシアで精神病院に入れられていて、かれはふたつの時空を行き来する。



物語のはじまりではただ語り手の声だけがある。語り手は、粉雪の舞う、暗く寒々しいモスクワを歩いている。聖堂のプーシキン像の胸に「革命一周年万歳」と書かれた赤いエプロンがさがっている。修道院の前の広場で演説をしている、「プロレタリアート」とか「テロル」とかそんな言葉を誰かが(機関銃のような巻き舌で)しゃべっていて。かれは逮捕される予感がして、嫌な感じなんだ、いま歩いているこの並木通りこそが、まさしく闇の世界への入り口なのかもしれない。




やがてかれのまえにおさななじみのフォン・エルネンが現われ、こいつがまたむかしは退廃詩を書き、人前でコカインをやったりしきりに社会民主主義系サークルとのつながりをほのめかし、聖三位一体をしゃべり散らしていたヘボ詩人だったくせに、いまやもっともらしく軍服を着こなす悪魔の手先になっている、よくいる転向者だ。しかし、ま、それでもいちおうおさななじみだ。だんだんうちとけて、やがてかれは自分自身の境遇をうちあける、自分が書いた詩のなかに、「装甲車、卒倒した」と韻を踏んだ箇所があって、その韻が、「かれら」を怒らせ、それでもって自分は追われ、逃亡している。信じられないだろ、でも、ほんとなんだ。しかし実はフォン・エルネンこそがかれをつかまえるための追っ手だった。さぁ、大変。ドストエフスキーの『罪と罰』さながらの活劇の末、かれは逆にフォン・エルネンを殺す。





その後ふたりの男が現われ、「おまえがベニア板か」と訊ねる。むろんエルネンを訪ねて来たのだと推定されるのだが、かれは(自分が殺したエルネン)になりすますことにする。なお、このタイミングで、実は語り手がピョートルであったことが判明する。そしてピョートルは「ベニア板」の愛称で呼ばれながら、かれらと行動をともにすることにする。かれは(文学仲間たちで退廃した空気をかもしだす)文学キャバレー「オルゴールつき煙草入れ」で、「ベニア板として」詩を朗読し、詩に合わせて、景気づけに天井へ向けてピストルをぶっ放し、場内を大混乱に陥れる。





だが、一章が終り二章がはじまると、実はそれらのすべてはピョートルの夢で、「現実の」かれは、現代のロシアの精神病院に収容されていて、入院患者がそれぞれの夢を語り合い共有するセラピーを受けているのだった。





その後もピョートルは、ふたつの世界の往還をつづける、前夜の文学キャバレーにいた黒い詰め襟服の男が現われ、赤軍の指揮官チャパーエフと名乗り、ピョートルを東方戦線へ向かう自らの騎兵師団の政治将校にスカウトしたいという。ピョートルは相手に不穏なものを感じつつも、参加を決心する。そしてピョートルは、赤軍将校チャパーエフにつき従い、白軍と戦う。


隊長のチャパーエフは、なんの意味もない言葉を自由に操って会話に参加できる能力を身につけることによって、その地位を獲得している。しかし機関銃手の女性アンナ(チャパーエフの姪)は、チャパーエフについて、違った考えをもっている。彼女はチャパーエフを「わたしの知るかぎりにおいて、いちばん深い部類に入る神秘家」と言う、「おそらくチャパーエフはあなた(ピョートル)に良い聞き手を見出したのでしょう。そしてあなたの病気もそのことと関係しているとおもう。なぜなら、かれ(チャパーエフ)は、もしも信じやすい相手なら、数時間のうちに完全な狂気に陥れることができる。わたしの叔父さんは特別な人なの。」ただし、チャパーエフについてのこのふたつの見方は、けっして矛盾してはいない。




からっぽは、昼寝時間に医師の部屋に忍び込み、自分に関する情報を盗み読む。それに拠れば、かれの病根は自分の姓への嫌悪にあって、十四才の頃から厭人癖を示し、長じてヒューム、バークリ、ハイデッガーらの空や無に関する著作を読みふける。やがて自分のなかに複数の自己の合唱や争論を聞き取るようになり、内部矛盾が解決できないことから、極端な不決断に陥る。これと並行して、中国哲学の影響、自由な思考による現実超越への意志、衆を超越した覚者の意識、人民の前での演説願望などがある、と観察されている。





果たしてかれの精神は、修復される日を迎えることができるだろうか? そして(実質によってではなく、虚構によってヒーローになった人物)チャパーエフは、からっぽたるかれに、どんな影響を与えるだろうか? (ついでながら、タイラ商事だの、ボスのカワバタだの、セップクだの、キッチュな日本イメージもいっぱいでてくる。)





この小説はたちまちベストセラーになるとともに賛否両論につつまれたという。なかにはこの小説を貫く思想に否定的な感想もあるようだ。「世界がヴァーチュアル・リアリティと変わらない? 冗談じゃない、世界は現実としてまさに目のまえにあって誰もを拘束している、それを見ようとしないのは、臆病者が目をそむけているだけだ、しかも色即是空などしょせんジャンキーの夢にすぎない」というふうに。(最後の章で登場するタクシー運転手のように)。




しかしむろんペレーヴィン支持者は反論する。では、「ソヴィエト連邦がつくりだしてきた現実は、ヴァーチュアルリアリティとどこが違う? と同時に、ペレストロイカ以降の現実は、悪夢から醒め現実に回帰したと楽観できるだろうか? できはしない、資本主義もまたひとしくヴァーチュアルリアリテイであって、まごうことなく別種の悪夢ではないか」





だが、批判はけっして唯識論にはとどまらない、1994年、亡命先アメリカからロシア連邦に帰還した、筋金入りの近代文学者ソルジェニーツィンには、〈ロシアのポストモダニズム〉が、ロシアアヴァンギャルドや未来派が試みた〈すべてを無に帰した後すべてを再創造する〉という全体主義の悪夢の喜劇的再来に見えるようだ。この批判はけっしてペレーヴィンを名指しで批判したわけではなかった(らしい)が、批判対象としてペレーヴィンがふくまれていることは疑いえない。はたしてこの批判は、本質を射抜いた批判だろうか、あるいは歴史的文脈の違いを無視したいいがかりだろうか、それはこの意見を受け取る者の文学観しだいである。




そんなことより驚くべきは、ペレーヴィンの『チャパーエフと空虚』が、ほとんどひとつの文学事件としてタイフーンを巻き起こしたということなんだ。
かつてミチコ・カクタニは『ニューヨーク・タイムズ』に書いた、ヴィクトル・ペレーヴィンは、ポスト・ソヴィエト時代のロシア文学のアンファン・テリブルだ。そう、冷戦下の共産党支配の時代と、グラスノスチ以降ソヴィエト連邦の分裂・崩壊の混乱のなかで、両親の属している過去から切り離され、欧米の大衆文化がいきなり押し寄せてくるなかで、変化への渇望と、政治への冷笑的姿勢が特徴的な新しい世代、Pジェネレーションの旗手であり、それはペプシ・ジェネレーションであり、同時にペレーヴィン・ジェネレーションのことなのである。ミチコ・カクタニはペレーヴィン現象を言い当てている。




しかも、『チャパーエフと空虚』は、分裂したロシアの過去と現在をモンゴル仏教で統一的ヴィジョンを与えんとする野心的な主題をそなえている。そのうえその文体には、〈徹底的な無力感のきわみでそれが反転した全能感がもたらす、分裂したユーモア〉があって、なんともおかしい。この作品の見かけがいかにダグラス・クープランドを連想させようとも、また主題の扱いがフィリップ・K・ディックや、ウイリアム・ギブソンとの親近性を感じさせようとも、はたまた中沢新一の『チベットのモーツァルト』を高橋源一郎がリライトしたような印象を受けなくもないにせよ、しかしペレーヴィンは、まったく異なった文脈からその世界をつくりあげた。そう、ロシアの二十世紀末という固有の文脈のなかから。ここはきわめて重要である。いったんこの『チャパーエフと空虚』を読んでしまうと逆に、ではいったいポストモダニズム以外のどんなスタイルで、ロシアの二十世紀末というしっちゃかめっちゃかな大混乱のなかで文学を可能たらしめることができるのか、とさえおもえてくるほどなのだけれど。もちろんそう感じさせるのは、ひとえにペレーヴィンの手腕である。






■ヴィクトル・オレゴヴィッチ・ペレーヴィン(Виктоp Пелевин, Victor Olegovich Pelevin、1962年11月22日-) モスクワ生まれ。モスクワエネルギー大学で、電子工学を学び、同大学院を経て、ゴーリキイ文学大学に入学、中退。飛行士の訓練を受けた時期がある。かつてかれは編集者として『科学と宗教』という雑誌に、東洋神秘主義についての記事を書き、カルロス・カスタネダの翻訳集を手がけた。なお、作家ペレーヴィン誕生には、ロシアのSF作家ボリス・ストルガツキィの指導と影響があるといわれている。1991年ソヴィエト連邦が80年の歴史を終らせた年、短編集『青い火影』がベストセラーになるとともに、ロシア・ブッカー賞の小賞をはじめ数々の賞を受賞。






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