メルケル前ドイツ首相が退任式に選んだ3曲が、彼女の人生を語る。
アンゲラ・メルケル(Angela Merkel)は、(彼女自身は子供をもうけなかったものの)、16年間にわたって〈ヨーロッパの母〉を務めた。2005年(当時彼女は51歳)から2021年まで4年×4期、ドイツ連邦共和国の首相だった。彼女はいったいどんな人でどんな人生を生きただろう?
メルケルは1954年生まれで、冷戦時代、ソヴィエト占領下の東ドイツ、ザクセン州(州都はドレスデン)、ライプツィヒで育った。バッハ、ベートーヴェン、シューマン、メンデルスゾーン、ワーグナーが暮らした街。中世の面影を残す「小さなパリ」とも呼ばれ、もともとは城郭都市だった。街は3つの川の合流した場所にあり、大聖堂が、オペラ座が、バッハの愛したトーマス教会がある。メルケルの父親はポーランド系ドイツ人の福音派プロテスタントの牧師であり、カレッジの校長。当時東ドイツは、社会主義国家における教会を、国民を束ねるために重要と見なした。しかも、メルケルの父親は政権と近かった。母親もまたポーランド系でラテン語と英語の教師だったものの、しかし東ドイツ成立後、英語は敵国言語と見なされたため働くことができず、母親として育児をして過ごすようになった。メルケルは3人きょうだいの長女だった。メルケルは内気で勉強がひじょうによくできる女の子だった。
メルケルが育った家の敷地内には、煉瓦作りの大きな棟があって、障害者たちが農業、酪農、養鶏、はたまた手工業、縫製などを実習をしながら共同生活をいとなんでいた。
東ドイツは労働者による革命で生まれた共産主義国家だった。小学校に入学すると、誰もが自動的に自由ドイツ青年団(FDJ)の下部組織に入る。おのずとコドモたちはマルクス&レーニン主義にもとづいた清く正しい共産主義のすばらしさを教えられ、党を讃え、ソヴィエト連邦への友愛の気持ちを育て、おのずと堕落した西側諸国を軽蔑するようになって、帝国主義からのいかなる攻撃にも屈しない精神を育てられる。もっとも、社会主義国家システムは労働者の権利を尊重する反面、まじめに働こうがテキトーにサボろうが賃金は同じ、おのずと生産性は上がらず、結果、(衣食住にかかるコストこそ安あがりなものの)国民はみんな相対的窮乏に耐えることになる。日々の食事はじゃがいも、キャベツ、ニシンの油漬け、ソーセージ、ライ麦パン、春にはサクランボ、秋には梨で、彼女もまた育ったでしょう。食べたことのないバナナがどんなにおいしいものか夢想したこともあったでしょう。
なお、メルケルは福音派の重鎮の娘ゆえ、社会主義の理念とのあいだに緊張関係を感じながら育ったでしょう。メルケルは謎の言葉をつぶやいています、「わたしのコドモ時代には影がなかった。」メルケルは14歳の頃に、SED(ドイツ社会主義統一党)の青年部「自由ドイツ青年(SDJ)のメンバーとして積極的に活動をはじめる。
メルケルは勉強がよくできた女の子で、とりわけロシア語と数学に秀でていた。(当時東ドイツにはソヴィエト連邦の軍人が55万人も駐留していて、東ドイツ人にとってソヴィエトはもっとも身近な国だった。)メルケルはカール・マルクス大学(現ライプツィヒ大学)に入学し、理論物理学の一部門である量子化学を専攻する。この時期彼女は、バイトでディスコのメイドをしています。(どんな曲がかかっていたかしらん? Udo Lindenbergとか???)またこの時期、メルケルは自分もまたその血を引くポ-ランドまで自転車旅行に出かけてもいます。それはポーランドの共産主義が崩壊前後の激動期です。もっとも、後にメルケルはポーランド人の記者に「そのときのポーランド訪問で、なにを覚えておられますか?」と問われ、「Nie ma jajek! (卵はありません)」と答えて笑いを取っています。1978年6月メルケルは論文『高密度媒体における二分子素反応の反応速度に対する空間相関の影響』を提出して、卒業。その後も彼女は研究者として生きてゆきます。
ソヴィエト連邦におけるゴルバチョフによる改革にメルケルは目を輝かせた。まさか、その後ソヴィエト連邦が崩壊してしまうことなど夢にもおもわずに。
1986年がチェルノブイリ原発事故。物理学者のメルケルはさぞや動揺したことでしょう。
ベルリンの壁崩壊が1989年11月10日、何千人もの人々が国境を越えて流れ込んで来る。ベルリンは朝から晩までお祝いのカーニヴァルです。壁の上でダンスする人たち。ベルリン市長は、東ドイツの市民に100マルク(約20万円?)のウェルカムマネーを支払うことに決定。銀行には長蛇の列ができます。ソヴィエトのシェワルナゼ外務大臣さえも祝辞を述べた、「東ドイツの成功を願っている。」
コール首相はよろこんだ、「自由なドイツ万歳、自由統一ヨーロッパ万歳!」そして旧東ドイツ市民ははじめて、自由というものを知ったのだ。
この年、メルケルは35歳、現在の夫である化学者ヨアヒム・ザウアーとともにポーランドに旅行をしています。ふたりは、ソヴィエト連邦に抗議する吟遊詩人ブラト・オクジャヴァやウラジーミル・ヴィソツキーと一緒にキャンプファイヤーをして、歌を歌った。
この年メルケルは自由覚醒党(DA)に入党。(ソヴィエト連邦の崩壊が1991年。)この時期からメルケルの闘う政治家人生がはじまる。彼女は学んだでしょう、けっしてイデオロギーも国家も永遠ではない。彼女は自由の可能性を知った。もはやわたしは炭化水素の反応の速度係数の計算なんてやっている場合じゃない。わたしは自分の手で未来をつかむのだ。
1990年が東西ドイツ併合。なお、この併合はメルセデス・ベンツやポルシェを持つ自動車産業の盛んな工業都市である西ドイツが、ゆたかで華やかなドイツ音楽、哲学を育てた東ドイツを併合するものだった。旧西ドイツ人たちは、旧東ドイツ人たちを共産主義にまんまと騙されて貧乏ったれになった連中として(内心)憐れんだ。とうぜん旧東ドイツ人たちの怒りは燃え上がった。カネに目が眩んで、あられもなく精神を堕落させた旧西ドイツ人どもめ。すなわち、〈統一ドイツ〉なる美名はあれども、しかしドイツのふたつの精神は事実上まったく統一なんてされなかった。そもそも両国民は受けて来た教育がまったく違うのだ。ひとつにまとまるわけがない。
メルケルは筋金入りの東ドイツ女である。2005年(当時彼女は51歳)から2021年まで4年×4期、計16年間にわたってドイツ連邦共和国の首相を務めた。彼女は誰とでもフレンドリーで、広いネットワークを持っていると同時に、用心深く、また政治家に必須の能力である警戒心を持ちあわせている。しかも、彼女は元科学者として、下から上がって来る厖大な資料をていねいに読み込み、分析し、総合的な判断をして、しかも、女性らしいソフトなコミュニケーション・スタイルでドイツをマネージメントした。
彼女は首相になってからもベルリンの古い賃貸マンションに夫と住み、夫の量子化学者ヨアヒムはスーパーマーケットで食材を買い、メルケルは料理をした。彼女はじゃがいもをマシャーでつぶしてスープを作り、紫キャベルを使ったスポンジ・ケーキを焼いた。彼女はワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を愛するドイツ精神を持ち、サッカーを愛した。
メルケルはドイツを人道主義的超大国にしようとした。なるほど、そこにはかつてナチスドイツ時代にユダヤ人たちを盛大に虐殺したその汚名から逃れられないドイツ人たちが晴れて誇りを取り戻すことに貢献もしたでしょう。また、それまで彼女は原発推進派であったにもかかわらず、しかし2011年福島原発事故の直後、2022年までにドイツのすべての原発を止めると決めた。2015年以降は、「対立ではなく協力を!」をスローガンに移民受け入れを無制限におこなった。シリア、アフガニスタン、イラク、ハンガリー、その後はウクライナからの難民がドイツにあふれた。メルケルは「わたしたちは変わるのだ」と高らかに宣言した。
最初はドイツの良識派もメルケルを支持した。しかし、結果ドイツは難民危機を迎えた。犯罪も増えた。失業率も高まった。ドイツ社会は完全に分断した。また、メルケルはギリシアへの救済措置もおこなった。同時に、メルケルはCo2削減を重んじ、再生エネルギー政策を推進した。しかも、メルセデス・ベンツ、BMW、アウディ、フィルクスワーゲン、ポルシェ、ミニを擁するドイツがあろうことか電気自動車に舵を切ったのだ。そのうえロシアがウクライナ侵攻をはじめてからは、ロシアから買っていたガスさえも絶たれてしまった。
彼女は勇敢に、古いドイツを打破し新しいドイツを作ることを試みた。14年間にわたってドイツ国民の支持を受けた。ロシアと中国に依存しつつ、ドイツ経済は発展もした。しかしながら、一見正しく見えもしたこうした政策は、しかし、次世代に大きなツケを残した。またせっかく経済的に好調だった時期にもかかわらず、しかしインフラのメンテナンスもなされなかった。
彼女の政策は、コロナ下のドイツ人たちに鬱屈をつのらせた。それどころか結果的にメルケルはドイツ右派および過激派を育てもした。その代表が、政党AfD(アー・エフ・デー:ドイツのための選択肢)である。かれらは、北アフリカに最大200万人のモデル国家を作って、ドイツに巣くっている移民ども追い出してそこに連中を住まわせちゃえ、と過激きわまりない政策をぶち上げている。そんなことが現実的に可能なのだろうか???
なお、メルケルは、ベルリンの国防省で開かれた、67歳の退任式で、慣例にしたがって自身が選んだ3曲を連邦軍の軍楽隊に演奏させた。曲目はジャーマン・パンクの女王ニナ・ハーゲンのDu hast den farbfilm Vergessen。なお、ハーゲンが歌うこの曲は、恋人がデートに持ってきたカメラにモノクロームフィルムを詰めてきたから、せっかくの写真がモノクロームになってしまった。あの頃この国がどんなに美しかったか誰も信じてくれない、と嘆く。メルケルはカール・マルクス大学に入学した頃、この歌を聴き、いまなおこの歌詞に深く共感していることがよくわかります。そして戦後ドイツの人気歌手ヒルデガルト・クネーフ (Hildegart Knef)の”Für mich soll's rote Rosen regnen わたしのために赤い薔薇が雨のように降る”。最後が18世紀のキリスト教聖歌”Großer Gott wir loben Dich われ神を褒め”だった。
thanks to 川口マーン惠美さん。ドイツ暮らしが長い彼女の著書『メルケル仮面の裏側ードイツは日本の反面教師である』(PHP新書 2021年刊)は、メルケルの政策によってドイツは自由を失いつつあるという趣旨で書かれていて、日本語で書かれたメルケル本のなかでもっとも重要な本です。なお、 著者の川口マーン惠美さんは、シュトガルト国立音楽大学大学院ピアノ科ご卒業の才媛でもあります。
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メルケルへの批判はドイツ国内に留まらない。
Klemen Slakonja はスロヴェニアの歌手です。
LET3はクロアチアのロックバンドです。
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