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古典教養有効論

高校の国語教育の中で

古典教育不要論

がSNS等で、話題になっています。そこで少し捻くれて

古典教養有効論

を展開してみました。

私の論点は

比喩を使う議論の基盤として
古典の逸話

を使う必要性です。

例えば、易経は

井戸の水を改めるように
革命を行う

と喩え、更に革命発生時に

有能な官僚は
豹の毛皮が生え替わるように
新体制に変化対する

と説きます。

さて、ここで大事な点は

私達の論理は西洋文明の
古代ギリシャの哲学からの
伝統の上に立って構築

されていて、インドや中国の東洋文明では

比喩を主体の論理

と言う状況です。

現在の文明下での、私達の論理のイメージは

幾何学の証明のように
定義・公理と推論規則を明確にし
そこから積み上げる

または

前提1:人間は死ぬ
前提2:ソクラテスは人間である
結論:故に「ソクラテスは死ぬ」
という三段論法

などです。これだけが、正しい論理、という躾が、学校教育などで行われています。

しかし、インドや中国の伝統的な論理は

前提:あの山に煙が見える
結論:だから山に火があるだろう
根拠:竈の火が煙を出すように

という、比喩主体の論法で説得してきます。仏教の経典も、ある高僧が

たとえ話ばかり

と批判しましたが、こうした比喩主体の論理です。この比喩論理は、直感的に納得する場合が多く、人に対する説得、巻き込みに有効です。

さて、こうした比喩を行うときには

多くの逸話が効果的

になります。例えば

お経では「お釈迦様が~~した」
論語では「孔子が~~と言った」

という多数の事例が共有されると、こうした比喩の材料が豊富になり、議論が進むようになります。

こうした観点から

古典に多く触れる

ことは必要だと思います。

なお、この話と関連して、古代ギリシャの哲学者プラトンは、大著『国家』の中で

若い人の教育は哲学者が行うべきで
詩人が行うべきではない

と言っています。

古典教育不要論の原点の一つは、ここにあると思います。もっとも、これも古典を読んでいないと、到達できないですね(笑)

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