日本的経営の落し穴
日本の社会では
皆の納得
を大事にしていると、今まで書いてきました。しかしながら、明治維新から戦前昭和までの、歴史を振り返ると
納得でなく騙されている
と言う状況が見えてきます。今回は、この問題について、もう少し考えて見ました。
まずは幕末です。ここで、強いスローガンは
攘夷!
です。そこには
尊皇も佐幕
も有りません。こうした「攘夷」で騒いだ、多くの志士は、明治の文明化に飲み込まれていきます。確かに、一部の神官達が
攘夷のため戦い死ぬ
という場面もありました。しかし、多くの「攘夷志士」は
明治の文明開化
に適応していきました。この転向について、ここでもう一歩踏み込んで考えると
攘夷とは何か?
を、本当に理解して行動した人は、どれほどいたでしょう?確かに、薩摩藩、長州藩は、イギリスなどとの戦いを経験し
攘夷を体験
しました。しかし、その後は
手のひらを返し文明化
に舵を切っています。
このような「手のひら返し」の根底には
内容を理解せず「空気」で行動
という体質が影響していると思います。
さて、明治の文明開化で、学校教育を充実させて、日本国民の基礎教養は充実しました。
それでも、真実が国民に知らされていない、以下の有名な事例が、あります。
日露戦争の勝利報告
日露戦争では、実質上の日本の勝利は
旅順要塞攻略
日本海海戦
程度です。陸軍の
奉天の会戦
は一見すれば
奉天を攻略した日本の勝利
ですが戦略的に見れば
日本の国力を見たロシアの撤退
将棋で言う指し切り狙い
と言う見方もできます。それほど、危ない状況ですが、これを国民に知らせず
まだまだ戦う
と大衆を扇動したのが、当時の国政指導者でした。こうした
「空気」で納得
が当時の世論でした。
さらに、日露戦争後は、軍部の中でも、大きな情報隠しがあります。日露戦争の勝因の本質は
正しい武器を適切な数準備
です。例えば、旅順の攻略でも、28糎榴弾砲が活躍しました。また、奉天の戦いでは、秋山騎兵隊は機関銃を用いて、ロシアの騎兵を追い払いました。しかし、その後の日本陸海軍は
精神主義第一
正攻法より奇襲を考える
という、詭道の道に走ります。
この対応は、日露戦争後の日本の国力を考えると、必要でした。戦争中の勢いで
正攻法を行う軍備
を装備し、維持するなら、経済的に破綻したでしょう。
しかしながら、軍人達の士気を維持する為にも、装備削減を行うため
日本軍人の精神力は最高
訓練に上限なし
と、マインドコントロールする必要がありました。
これは、第一次大戦後の、一時期まで成功しました。特に、軍縮条約時に対英米に対する、軍艦保有数が押さえられたとき、東郷平八郎元帥の
「軍備に制限は加えられても訓練には制限はありますまい」
で、強硬論者を押さえた時までは、上手く働きました。
しかしながら、第二次大戦に突入した後は、これが全て裏目に出ます。まともな武器も与えられず、精神主義での突撃という、悲惨な戦いになりました。
この理由は
日露戦争後の精神主義
の必要性
について、理由を理解し、上手くコントロールする、指導者層が育たなかったからです。
このような
理解せずに「空気」で納得
の危険性が、日本的経営にはあると思います。
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