日本の議論の問題点
日本と西洋の文明には
日本:人は神の智慧を持てる
西洋:人は神の智慧に到達できない有限の力
と言う違いがあります。これが、議論にどのような影響を与えるか、考えました。
西洋文明の場合には
完全なモノは無い
色々な見方の持ち寄り
が前提での議論となります。そこで
不完全な知識のぶつかり合い
平等な立場での議論
が自然に行われます。
一方、日本の文明では
完全なモノを持つ人がいる
と言う可能性を認めます。そこで
自分の方が全てで優位
と言う立場で、議論に臨む人がいます。このような人に対して、異論を出すと
無礼者として排除
される場合もあります。さらに、異論を述べる側も、自分が完全と思い込んでいると
神々の争い
になってしまいます。
この危険性を、理解せずに
話せば分かる
と言う、「原理主義者」が少なくありません。また、学歴などの優位性でのマウンティングでの押しつけも発生しています。この一つの理由は
学校教育制度の弊害
です。理解していない教師の、指導書依存の教育の従うようにしつけた結果です。
さて、日本的な有意義な議論は、あるのでしょうか?私は、二つの道があると思います。
一つ目の道は、本当に完全な理解がある場合で、相手に対して、色々な方法で説明する、大人の対応です。二つ目の道は、菩薩の出会いという感覚で、お互いによいところを見て、相互に学ぶ姿勢です。自分の主体性を維持しながら、周りの善いモノを取り込む姿勢を常に保ちます。
どちらも、ある程度の自分なりの、全体像を持った理解が必要です。その上で
人を見て法を説く
と言う相手に合わせた説得を行う。相手の前提としている考えを見抜いて、その間違いを正すなどです。
もう一つは
相手の言うことを尊敬を持って理解
と言う方向です。そこで自分の持っているモノを、よりよくしていくという発想で、意見を交わしていきます。
自分に欠けているモノの指摘は
批判ではなく向上の機会
と言う発想が重要だと思います。
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