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「意味」とは何か

人工知能について、哲学者のサールが提唱した
「中国語の部屋」中国語の部屋 - Wikipedia
という問題があります。

この問題に対して、哲学者のデネットは、サールの主張を

  • 命題1:プログラムは純粋に形式的(すなわち統語論的)なものである

  • 命題2:統語論は、意味論と等価でもなければ、意味論に対して充分でもない

  • 命題3:心は心的内容(すなわち意味論的内容)を持っている

  • 結論1:プログラムを持っていると言うことは(どんなプログラムであれそれだけでは)、心を持っているということと等価でもなければ、心を持っていることに対して充分でもない

とまとめています。

さて、私はこれを踏まえて、上の「命題2」と「命題3」に対して、反論を試みたいと思います。

前にも書きましたが、機械的にマニュアル通りの答えを書く、このような行動に、心がこもっているとは言えません。サールが言っているのは、AIは大量のマニュアルを見て対応でしているだけ、という否定をしているのです。

しかしながら、これはAIの話だけでしょうか?例えば、禅問答でも、解答集通りに行動する人が、「本当に悟った」とは言えないと思います。
多くの人が既に書いていますが「趙州無字」の公案は

ムーと唸る

のが正解となっています。

これに対して、本当に悟った人なら

趙州和尚の境地になって「無」と唸る

でしょう。このような人は、上記の「命題3」の

意味内容をしっかり把握

しての行動と言えるでしょう。

さて、このような「意味」を、人間はどうして掴むのでしょう。

私の経験では

色々な教えが蓄えられて
それが現実の体験と結合していく
それがある程度貯まると
一つの絵ができそこで動く人の考えが解る

と言う様な体験をすると

意味がわかった

と自信を持って言えるようになります。これを、西洋文明的な言葉で言えば

  1. 知識を蓄え

  2. 対応する事例と関連付け

  3. 例を抽象化しモデル化(絵を描く)

  4. その登場人物の行動方針をプログラムで作成

というステップでの行動になるでしょう。この実行時には、色々な修正が入りますが、大きな流れは上記の通りです。

さて、ここで私が言いたいことは

モデル世界とその上での行動指針
の中に
意味が存在

です。

加えて

上記作業はAIで実現可能

が、もう一つの主張です。もう一つは

人間の学びも記号の集まりで表せる

という主張です。体験も、その説明は、言葉に乗る。この考えもあります。

今回は前に書いたNOTEの続編として書きました。

人工知能についての神学的議論(10禅問答の問題提起)|鈴木良実|note
人工知能についての神学的議論(10' もう一つの禅問答)|鈴木良実|note

#中国語の部屋 #デネット #サール #強いAI

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