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昭和の通産省の成功と失敗

 日本の官僚の優秀さ、そして現在は、その優秀さが失われと言う議論をよく聞く。こうした官僚の有能さと、失敗について、昭和の通産省の成果について見直すと、現在に通じる教訓が出てくる。

 まず成功は、昭和の高度成長を成し遂げたことである。例えば、労働力確保のため、東京への憧れを、若い世代に持たせるようにした。色々な地方に

『XX銀座』

と言う繁華街を造らせる。こうしないと、中卒や高卒の若い労働力を、都市権威集中させることは難しかった。これは流行歌で

「ああ上野駅」

と言う、地方出身者の寂しさを、

「おら東京さ行くだ!」

と言う憧れに変えていった。

 実は、平成の時代には、この効果が少し薄れている面もある.私は、採用担当者として、地方の工業高校を巡り、都市にある工場に就職してくれるように頼んだ。しかしながら、多くの地域では地元志向が強く、志望者が少ないという体験をしている。某電力の原発立地の高校では

「我が校は、XX電力の関連会社で就職する子が多いのです。本社はXX市ですが実質は、この地域での仕事ですからね。そちらの会社に行く子は少ないと思いますよ。」

と、哀れみの目を向けられた。

 この体験から、昭和の中卒者の集団就職を実現するため、東京への憧れを煽った、通産官僚の働きは、尊敬に値するモノがある。

 こうした、日本経済の工業化への構造転換は、アメリカ社会という模範があったから成立した。つまり、通産官僚は、

「アメリカの模範に追いつく政策」

の立案では有能であった。

 さて失敗の事例では、

「第五世代コンピュータプロジェクト」

である。これは、

「アメリカの物真似でない独自のコンピュータ構造」

を開発しようとした1980年からの十年計画であった。

 しかしながら、コンピュータ技術の進歩は、十年計画を遙かに追い越し、80年代中頃には、プロジェクト関係者が自嘲的に

「私達の仕事は、保守的な研究で・・・」

と言う風になってしまった。

1980年代のアメリカのコンピュータ技術は、重厚長大のIBM計算機より、軽さを重視したUNIX文明に主力が移っていた。さらに、ダウンサイジングは進み、マイコンなど時代になっていく。この研究開発は、大学などが主体になり、多様な研究者の協力が進んだ。またIBM自体も、パソコンを手がけるなど変化に対応していた。しかしながら、日本の通産省は第五世代プロジェクトを見直す機会を失った。

 この教訓は、

「日本の官僚は、模範がある向きに走るのは上手、しかし独自方針を考えしかもそれを走りながら修正するのは下手」

ではないかと思う。

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