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「論理的」な発想への反発

時々

「日本人は論理的な思考が弱い」

という議論を見かけます。今回は、この問題について

西洋文明を冷静に見る

立場で考えました。つまり

「論理的」というのは普遍的価値か?
言い換えると
西洋文明の「論理的」が絶対?

と考えて、見直してみました。

さて、西洋文明の成立を考えると

  1. 古代ギリシャの哲学

  2. ローマの法律

  3. キリスト教の支配

  4. ルネッサンス以降の自然科学

  5. 産業革命以降の機械的文明

  6. 民主主義革命からの議会制民主主義

という流れがあります。ここで「論理的」な考えは

古代ギリシャの哲学
ユークリッドの幾何学

から始まります。ここでは

抽象化した「理想的」な物での議論
例えば
太さがない線・広がらない点での幾何学

という発想で、議論を進めます。これは幾何学だけでなく、プラトンの「イデア」のように哲学一般に展開しています。

さて、プラトンの話がでたので、もう一つ

哲人政治
物事の本質に迫る哲学者の優位

という発想にも、注意が必要です。

「論理的」な力が支配者の必要条件

という発想が、西洋文明にはあります。

但し、この「論理」は

抽象化し理想化した
0か1が明確な条件で成立

形で展開していきます。

さて、西洋文明で「論理」の力が、多く働くのは、ルネッサンス時代です。この時代に自然科学が大きく進歩します。しかしながら、ここでも

理想化した極端な状況で考える

発想が力を持ちます。例えば、有名なガリレオの思考実験では

当時の自然学の
「重い物が速く落ちる」
という命題を否定するため

鉄球二つは同じ速さで落ちる
それを紐で繋ぐと重さは倍になる
従ってこのような紐で繋いだ鉄球は
速く落ちるはずである

しかしこれは現実にあり得ない

つまり「自然学が間違い」

という議論です。この論法を、一般化すると以下のようになります。

  1. 今までの定説を取り上げ

  2. それを極端な事例で議論し

  3. 直観に反するとして否定

という方法です。こうした思考実験での議論は、現在の哲学者も多く使っています。

こうした

極端な事例
0と1との2分法

という発想が、西洋文明の「論理的」な考えの根底にあります。

この様に

極端事例に注目する

発想は、多くの発見に繋がることもありますが

大勢を忘れる危険性

も有ります。例えば、

「ワクチン接種の副反応で
一人の重傷者がでたとき
それを執拗に議論する。
そこで
ワクチン禁止にならば
多くの感染者が出ることを見逃す。」

と言う感じです。

このような面を考えると「論理的」な発想への反発も解るでしょう。




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