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仏の智慧をテトラレンマで説明(改訂)

大乗仏教の教えとして『空仮中』の教えがあります。しかしながら、天台大師の『摩訶止観』などでは『中道第一義』を実感する『円頓止観』を説いています。

この違いを、私なりに考えてみました。一つの切り口は、京都学派の哲学者(京大名誉教授)、山口得立(やまぐち とくりゅう)の「テトラレンマ」
の発想です。これは、中論を体系化した、2世紀にインドで生まれた龍樹が使用した「論理的」な考え方です。

テトラレンマの発想では以下の4つのレンマで考えます。

  1. Aである

  2. 非Aである

  3. Aでなく、非Aでない

  4. Aであり、かつ非Aである

西洋文明の論理は、上記の1.と2.の両者で、その中間がないと考えます。これを「排中律」と言います。

しかしながら、現実社会の多様性に対応して、3.のような中間的なモノを考える必要があります。西洋文明でも、アルフレッド・コージヴスキーの「
非アリストテレス論理学」などが提案されています。

このように考えると、Aか非Aの択一の中間を考えるのは、自然なことだと思います。『中』の教えも、その線に乗っています。それでも、4.の

Aと非Aの両方

というのは無理がある、と思う人が多いのではないでしょうか?

私も、テトラレンマについて、知ったとき、この点で悩みました。しかし、ここで

芥川の『藪の中』

を思い出しました。ネタバレになりますが『藪の中』では、全ての関係者が

「私が殺しました(自殺も含む)」

と答えています。私も高校時代にこれを読んだとき

「真犯人は誰か?」

と色々議論しました。

しかし、世界を全て我がものと考え、衆生全てを我が子と思う、仏の智慧で考えると、

各々が
「自分が殺した」
と考える方が救われる

という考えもあるかと思いました。仏の大神通力をもって

全てが救われる世界

を造る。これが、一つの答えと思います。

このように考えて、法華経を読むと

人を見て法を説く
種々の方便を尽くす

仏の智慧が見えてきます。

一方、一つ一つの救いを実践する『菩薩行』なら

無数の現実に合わせて中を拓く

対応があると思います。多様性に対して、個別に対応する『菩薩』それら全てを造る『如来』の力、このような解釈はいかがでしょう。

こうした、全体像を描き、皆のために考える発想、これが現在必要だと思います。

さて、このnoteを投稿してから、一年半がたちました。そこで私はもう一つの気づきがありました。私が瞑想で、全てを捨てていく観法を行ったときです。その修行で行くところまで行くと

非想非非想

と言う境地になります。これは、単純に否定して、別物に行くというのではなく

絶対的に『想う』を捨てる

と言うことです。ここまで来ると

一切がない!
と感じる

それでも私があるのは仏の力

と実感しました。

さて、この境地は、テトラレンマの

3.Aでなく、非Aでない

ではありませんか。先人が言う

絶対的な否定の先に見えるモノ

とはこれではないかと思います。

#テトラレンマ

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