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源氏物語ー融和抄ー源融①

 源融は822年、嵯峨天皇の第十二皇子として生まれました。嵯峨天皇の先代は平城天皇、お二人の父は桓武天皇です。平安時代初期の頃になります。平城天皇の孫に、在原行平、業平兄弟がおり、源融との親交があったことが伝わっています。同時代を生きた方々です。

 864年に陸奥出羽按察使に任じられます。この頃は上位の公卿が兼任し、任地へは赴かず遙任することが常となっていた為、融も任地へは行っていないだろうというのが通説ではあります。
 ですが、塩釜には融が居を構えた地が伝わっており、さらに福島には融が赴任中に恋仲になったという女性の伝説と石が残されています。

 福島信夫地方に古くから伝わる染色法で、紋様の入った石に絹をあて、その上から忍草を擦り付けて染める「文知摺」というものがありますが、融はそれを歌に詠み残しています。

みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆえに 乱れんと思う 我ならなくに
陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのに(あなたのせいですよ)。

 再会を約束して融は都へ戻りますが、虎女という女性は融に会いたい一心で、観音堂に願をかけ文知摺石を麦草で磨き続けます。満願の日ついに、その石に融の姿を一瞬見出しますが、精魂尽き果て病になりほどなく亡くなってしまいます。(この石が現存しています)
 死の直前、都にいる融から虎女へ歌が届きます。それが古今和歌集に残されているこの歌です。

 そしておそらくこの兼任がキッカケとなって、六条の邸宅に、現在の宮城県にある塩竈の景色を模した庭園を造り、難波から海水を運ばせ、魚を泳がせ、専ら塩焼きを楽しんだと云います。
 これが六条河原院と呼ばれ、多くの貴人達と管弦や和歌を詠んで遊んだ様子が伊勢物語等に残されています。
 そこには、在原行平、業平兄弟も招かれ、歌を交わしました。
 業平が扮したと思われる身をやつした翁が歌います。

塩竃にいつか来にけむ朝なぎに釣する船はここによらなむ
塩竃にいつ来たのでしょうか。このお庭を眺めていると、本当に塩竃に来た気分です。朝なぎの中釣をする船は、この塩竃の浦にこぎ寄せてほしい。

 それにしても、源融は何故それほどまでに塩竈の景色に魅了され、塩焼きに没頭したのでしょうか。私はまだそれを理解できずにいます。人は行ったことも見たこともない景色に、これほどまでに情熱を注ぐものでしょうか。
 信夫文知摺の歌にしても、無駄のない真っ直ぐな気持ちが伝わってきて、誰に詠んだものなのか…とても気になります。
 案外伝説は本当なのかも知れない、僅かな期間であったとしても塩竈に住んでいたのかもしれない、というか、そう期待してしまいます。

 そうでなかったとしても、私には、融の心にその景色がありありと刻まれていたように思えて仕方ありません。
 そして業平もまた、いつか、塩竈の景色を見たことがあったのでしょうか。

 あるのでしょうね…きっと、いつかに。


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