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源氏物語ー融和抄ー藤原不比等

 光源氏はたくさんの女性を口説いて回った、というのが一般的な印象だと思います。読んだ事がない方もそういう知識を持たされていると思います。
 その実、よく観察してみると、なんとワケ有り女性の多いことか!
 ここで興味を持った方はぜひ読んでみられてください。光源氏はこれでもか、これでもかと、何かしらの事情を抱えた女性とばかり出会っていくわけです。
 少しフォローをするとすれば、これも時代背景に原因があって、それが大部分を占めるだろうとは思います。
 ですから、そういう他に行くあてのない女性の面倒をみる星の下にいたのだろうと思えてしまうわけです。
 おあつらえ向きに、人一倍人情に厚い人物像なのですよね。一度縁を持ったら、放っておけない性分なのです。
 興味本位で通ったものの、「実際会ってみたらちょっと残念だった」という、鼻の先の赤い末摘花という姫がいます。須磨・明石にいる間はさすがに疎遠になっていたものの、京に戻って偶然通りかかった時に思い出して顔を出してみると、屋敷は荒れ果てていて、自分の他に通ってくる人もいないだろうと気の毒に思い、二条院という自邸に引き取りました。
 先述の空蝉という女性も、一度は契りを結んだものの、後は逃げられてばかりで、流石の光源氏も諦めざるを得なかったわけですが、後年空蝉もまた事情があって困った身の上になっていたのを知り、二条院に住まわせています。
 こんな風に、非常に情に厚い人物として描かれています。
 最終的に、六条院と二条院の二箇所の自邸に、縁を持った女性を住まわせていくのですが、それはさながら、後宮に女御や更衣を侍らせている天皇の在り方と同じなのです。
 片や、やんごとなき姫君達がお住まいになって、片や色んな事情を抱えた女性が集っている。よくよく見れば、実に不思議な世界観なのです。
 それでも現実世界に比するものもないほどに、雅やかな世界を感じさせるのですから、ほとほとその筆力に感じ入る次第です。

 そんな光源氏の側面のモデルとなったのは、藤原不比等ではないかと私は思います。
 不比等にはハッキリしているだけで四人の妻がいます。他にも数人いたと思われますが、そのうちの二人は未亡人との再婚です。
 一人は天武天皇と結婚し、新田部親王の母である五百重娘。五百重娘と不比等は異母兄妹ということになっています。不比等との間には、四兄弟の麻呂がいます。
 もうひと方は、美努王という方と結婚していた、県犬養美千代です。美努王との間には橘諸兄をはじめ三人の子供がいました。不比等との間には、聖武天皇の皇后藤原光明子がいます。

それから、これは能楽の「海人」の演目になっている、伝説的な伝承ではありますが、四兄弟の房前の出自について、こんな話があります。


 藤原不比等[淡海公]の子、房前(ふさざき)の大臣は、亡母を追善しようと、讃岐の国[香川県]志度(しど)の浦を訪れます。
 志度の浦で大臣一行は、ひとりの女の海人に出会いました。一行としばし問答した後、海人は従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したように、かつてこの浦であった出来事を語り始めます。

 淡海公の妹君が唐帝の后になったことから、興福寺に「華原磐(かげんけい)」「泗浜石(しひんせき)」「面向不背(めんこうふはいの)玉(宝珠)」の三つの宝物が贈られました。
そのうち、『面向不背の珠(釈迦の像が必ず正面にみえる不思議な宝珠)』が龍宮に奪われ、それを取り返すために淡海公が身分を隠してこの浦に住みつき、淡海公と結ばれた海人が一人の男子をもうけました。それが房前です。
 宝珠を取り返すように頼まれた海人は、引き換えに子を世継ぎにするように願い、海に潜って竜宮へ赴き、自分の乳の下をかき切って体内に珠を隠し海上へ辿り着き、淡海公は見事珠を手に入れます。しかし海人はその傷がもとで亡くなってしまいました。
 そして約束通り、淡海公は房前を正式な自分の子として、都へ連れ帰りました。

そう語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前の大臣に手紙を渡し、海中に姿を消しました。

房前の大臣は手紙を開き、冥界で助けを求める母の願いを知り、志度寺にて十三回忌の追善供養を執り行います。法華経を読誦しているうちに龍女(りゅうにょ)となった母が現れ、さわやかに舞い、仏縁を得た喜びを表します。

 不比等と讃岐の海人との間の子だということになります。
 藤原氏は四兄弟の長男武智麻呂の(南家)がまず先に勢力を伸ばし、次いで三男宇合の後裔(式家)が続きますが、最終的にはこの房前の後裔(北家)が勢力を伸ばし、藤原氏の栄華を極めていきます。高藤をはじめ、紫式部の周辺人物も、この北家の出身となります。
 この現実を思うと、房前を世継ぎにする約束が果たされたようにもみえ、この話に信憑性を与えているように思えます。

 このような不思議な伝説さえ持ち合わせている不比等。
 また須磨・明石の段では、光源氏に海の神様からのご加護があった事。
 これらを思う時、房前の伝説を含め、何か、海との深い縁が感じられます。
 須磨・明石の段を書き始めた石山寺で、湖面に映る月を眺める紫式部。その脳裏に浮かんだのは、海からの便りだったのかもしれません。

 能楽「海人」にて
 冒頭の海松布を刈るように頼まれた海人は、空腹ならこれを食べるようにと持っていたものを献じようとします。しかしそうではなく、房前の意図はこのようなことでした。

水面に映る月影の風情を思い、妨げとなる海藻を取り除いてほしい

 世阿弥の時代には、既にこの演目の元があったようです。一体誰が作ったものなのでしょうか。全てをつなぎ合わせるような、古代のロマン溢れるお話しです。

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