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源氏物語ー融和抄ー高藤の恋

 あまりにも気の遠くなるような話は抜きにして、日本の飛鳥時代、西暦でいえば650年前後に中臣鎌足という人物がいました。天皇家のお血筋ではありませんが、昔から神様をお祀りする神事を司るお家柄でした。第38代天智天皇の側近として活躍し、亡くなる間際、天皇から藤原の姓を与えられました。

 藤原不比等というのは、この鎌足の子供です。不比等の子の中に、4人の男子がいました。武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂、一般的に藤原四兄弟と呼ばれます。この兄弟はこの先も度々Pocket記事に出てくるかも知れません。覚えておいてくださいね。

 それでは、次男房前をたどっていきます。房前の三男・真楯。真楯の三男・内麻呂。内麻呂の次男・冬嗣。冬嗣になると聞き覚えのある方が増えてくるでしょうか。この冬嗣の六男・良門。そして良門の次男・高藤(たかふじ)。今日はこの高藤のお話になります。

 時は平安前期。高藤は838年生まれと伝わります。 父良門は鷹狩りを好みましたが、高藤も父譲りで鷹狩りを好み、幼少時から出かけておられました。

 高藤が15〜6の歳の9月頃、京都の山科辺りに鷹狩りに出かけました。鷹を使いながら歩き回っていると、午後4時頃になって急に雲が出て雨が降り出しました。同時に強風が吹き始め雷雨となったため、皆方々へ逃げ出しました。

 高藤は一軒の家を見つけ、馬飼いの舎人を1人連れて駆け込み、廊で雨宿りを始めました。すると家主がそれに気づき、高藤の正体を知ると家の中へ迎え入れ、濡れた服を乾かし、自分の娘に給仕をさせもてなしました。

 家主はその郡の大領・宮道弥益(みやじのいやます)、娘は列子(れっし・たまこ)といい、列子の歳の頃は13〜4くらいでした。高藤は娘のうるわしく美しい様子に心惹かれ、真実行く末変わらぬ愛を繰り返し約束し、9月の長い夜を契り明かしました。やがて夜があけると、帯びていた太刀を形見として与え、親が縁談をもってきても応じてはいけないよと言い含めて、ためらいながらも帰って行きました。

 しばらく進むと他のお供の者達とも合流し、京の家へ帰っていきました。 父の良門は大変心配していたので、無事に帰ってきた事を喜びましたが、「自分も若い頃、気の向くままに鷹狩りへ行った。亡き父がお止めにならなかったので、そなたにも自由に行かせていたのだけれども、こういうことがあると心配なので、今後若いうちは出歩かないように」と言いました。 こうして鷹狩りへ行けなくなってしまった高藤は、あの娘への想いが募ります。たったひとり、あの家を知る馬飼の舎人は暇をとって田舎へ帰っていて、使いの者を出しようもありませんでした。恋しい想いはいっそう募り、忘れられないまま4〜5年の月日が過ぎていきました。

 そうするうちに、父良門は早くに亡くなってしまい、高藤は伯父の良房の世話になっていました。容貌も美しく気立も優れていたので、良房は目をかけて面倒をみました。 それでも高藤は父がいなくなった心細さと、あの娘が心にかかって、妻も娶らず、いつしか6年が経っていました。

 その頃、先の馬飼の舎人が戻ってきて、聞くとその家を覚えているというので、高藤は大変喜び、鷹狩りへ行くふりをして、もう1人のお供を連れて出かけていきました。

 旧暦の2月21日頃といいます。家の前の梅の花がちらほらと散って、鶯が美しい声で鳴き、遣水に落ちた花びらが流れていく風情がとても趣き深い様子の中、高藤は家の中へ入って行きました。

 家主を呼ぶと、思いがけない訪問に大変喜びました。あの娘は居るかと問うと「居ります」と、家の中へ招きました。 そこには一段と女らしく美しくなった娘と、5〜6歳くらいの女の子がいました。聞けばあの一夜の契りの時に身籠った子だと言います。枕元を見れば、形見に渡した太刀があります。ひどく心うたれ「このように深い契りもあるものだなあ」と言い知れぬ感動を覚えたのでした。

 翌朝、すぐに迎えに来ると約束して一旦京に帰りました。家主は大領と聞き「身分は違っても、前世の契りが深いのだろう」と、翌日迎えに行きました。 娘と幼い姫君と、娘の母である家主の妻を車に乗せて屋敷へ連れて帰りました。仲良くお暮らしになり、他に男の子が2人生まれました。

 後に、あの幼かった姫君は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇をお産みになりました。高藤は醍醐天皇の外祖父となります。醍醐天皇が即位すると、高藤は100年間不在だった内大臣となり、死後には太政大臣となります。そして列子の父宮道弥益は四位の位を与えられ貴族になりました。

 その後、あの弥益の家は今の勧修寺(かんじゅじ)となりました。その近くには醍醐天皇の御陵があります。

 考えてみますと、かりそめの鷹狩の雨宿りによって、このようなめでたいことにもなったので、これはみな前世の契りであったのだ――とこう語り伝えているということです。

 このお話は、平安時代末期に成立したとみられる『今昔物語』の中に残されていますが、事実性は非常に高いように思います。

 最後のくだりでは、高藤が思うだけでなく世の人々にもまた、これは前世の契りだったのだろうと語り継がれたと結ばれています。

 実は高藤と列子の娘が嫁いだ宇多天皇という方も、一度源姓へ臣籍降下した後、皇族復帰をして天皇になったという、数奇な運命を辿った人物なのです。
 さらに言えば、子の醍醐天皇は臣籍生まれの天皇なのです。
 
 (余談ですが、宇多天皇が源定省として宮中に仕えていた頃、在原業平と殿上の間の御椅子の前で相撲をとり、2人の体がぶつかって椅子の手すりが折れたという逸話が残されています。不思議ですが、私はこの話を知った時に、この時代のリアリティを強く感じたものです。)

 高藤の純愛物語のみでなく、同時期、天皇家の方でも運命のイタズラ的な事が起こっていたことを考えると、前世の契りも含めて、大きな思し召しがあったように思えてなりません。いえ、だからこそ全ては前世の因縁ということなのでしょうか。揃って異例の開運劇という、類い稀な歴史のひとこまにも思えます。これが愛の神秘の扉が開かれた時ということなのでしょうか。仮初めの雨宿り。何かが降らせた雨だったのかも知れませんね。

 そして、この高藤のそう遠くないお血筋に、紫式部は誕生します。物心ついた頃には既に伝わっていたと思われますが、人よりも身近に感じられただろうこの話は、紫式部の心をどんな風に動かしたのでしょうか。

 これは『源氏物語』の中の明石の上のモデルになっていると考えられています。孫が天皇になるところをみると、確かにそう考えてもよさそうです。もしかしたらその中に、紫式部の思いが込められているかもしれませんね。

今日は随分長くなってしまいました。
続きはまた…
最後までお読みいただきありがとうございました。

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