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源氏物語ー融和抄ー紫

 紫式部がどのような環境の中にいたのか、その生い立ちを整理してみます。
 970年、または973年生まれ。父は藤原為時。母が早くに亡くなり、父の元で暮らします。為時の系譜は、藤原高藤の父良門からスタートすると、良門→利基(高藤の兄)→兼輔→雅正→為時、となります。
 夫の藤原宣孝は、良門→高藤→定方→朝頼→為輔→宣孝、となります。
 父も夫も藤原良門流から派生したところに生まれ、結束した一族の中にいたといえるでしょう。
 高藤の息子定方から派生する一派を勧修寺流とよび、この流派は今風に言えば、宮中の文書係のような事を担当していました。勧修寺を中心に、非常に強い一族の結束を保っていたようです。
 また、為時の祖父兼輔や定方は当時の歌壇の中心的な人物で、紀貫之をはじめ、多くの歌人との交流がありました。紫式部は、そのような環境の中で暮らしていました。『源氏物語』を執筆する素地を十分に満たしていたといえるでしょう。
 そして、紫式部自身については、幼少時から漢文を上手に読みこなし、父為時に、この子が男だったら(良かったのに)惜しい事だと言わしめたといいます。非常に才気溢れる女性だったようです。
 才能も環境もこの上なく揃った中、世界中から賞賛される物語は綴られていくこととなります。

 996年、父が越前(福井県)へ赴任することになり、紫式部もついていきますが、雪国の暮らしの過酷さに耐えかね、ひとり京へ戻ったとも伝わります。それ以外は京で暮らしていたようです。
 その後、998年に歳の離れた宣孝と結婚し、翌年娘をひとりもうけますが、1001年に宣孝は亡くなり結婚生活はわずか3年ほどでした。
 宣孝の死後、1005年頃から宮中にあがり、藤原道長の娘・彰子に仕えました。
 『源氏物語』は1010年頃に完成したと言われています。

 娘の賢子は成長して、紫式部の跡を継ぐように彰子に仕え、大弍三位と呼ばれ、歌人として活躍しました。この方は、2度目の結婚で高階家へ嫁ぎますから、やはり何か、歌のご縁があったような気がしてきますね。

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