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『幼馴染』

ジャンル▷3本話
ワード▷熱帯夜/摩天楼/サンダル


 じっとりと、他人の温度が薄膜越しに纏わりついてくるかのようなひどく不快な夜だった。人肌の空気が体を包み込んでは私の意識を蝕んで奪っていく。
 汗ばんだ体を脱ぎ捨てたくて、いっそのこと水の中に飛び込んでしまいたいという願望を抱えたまま私は一回り大きいサンダルに鞭を打って海へと駆け出した。

 海へ辿り着くと、目の前では水平線から夜が顔を出し、桃色に染まっていた空を刻一刻と侵食していた。頬を撫でる海風は住宅街の風よりも冷気を帯びていて心地いい。
 私は思わず目を閉じた。
 気分も良くなれば口遊みたくなるともいうものだ。波の音が私の少し音程の外れた歌と混じり合って、誰に聞かれるわけでもなく風と共に流れていく。

 そうして一曲を終えて、私はサンダルを砂浜に置いて海へと飛び込んだ。
 冷たい水の中に身を投じ、そのおかげで取り戻した冷静な頭で今日のことを振り返る。

 こんな夜だったからだろうか、それとも今日が彼がいなくなってちょうど7日目の夜だったからだろうか。

 私はやけにひどくむしゃくしゃしていた。
 その証拠に、つい一刻前に学校から帰宅した私は、リビングで遊んでいる幼い妹の積み木を一瞥した後、それをぐちゃぐちゃに蹴っ飛ばしてしまっている。
 それを見た母親が激怒して、何故そんなことをしたのかと問い詰めてきたけれど、「ビルが並んでいる街みたいに見えたから」だなんて、そんなこと言っても理解なんてしてもらえやしないだろうから、結局口をつぐんで外に飛び出したのだ。
 例えるなら、家に訪れる知らない人に吠える庭先の不機嫌な犬のような気持ちだったのだ。ふと目に見えたそれが、発散しようもないこの気持ちをちょうどよく刺激してきて、盛大に吠え散らかしたのである。今思えばなんて幼稚だったことだろう。妹には後で謝ろうと小さく決心したところで、弱々しい本音が漏れる。

「……都会はそんなにいいってわけ?」

 誰に聞かれることもなく独り言は波の音に掻き消された。

 1週間前に都会に引っ越した幼馴染は私の初恋の人だった。いつもそばに居て、これからも当たり前のように横にいると思っていた幼馴染は、手から離れた風船のようにふらりと喧騒の中へと飛行機に乗って飛んでいってしまった。
 元々住んでいたのは確かに向こうのほうだけれど、この町が好きだと、この海が好きだと、そう言っていたはずなのに。
 行き場のない気持ちが胸を圧迫して、また身を海の中へと沈み込ませた。水の中は陸よりも体が重くなくて、軽くなった分だけ少しだけ息がしやすい気がした。
 ふと、砂浜の方を見れば、先ほど置いて行ったサンダルの片割れが居ないのに気がついた。サンダルを探して視線を泳がせば、それは波に浮かんで、もう取り戻せもなさそうな位置で気持ちよさそうに泳いでいる。
 その姿は今のわたしたちを彷彿とさせて胸が少しだけ痛んだ。
 かつて、彼のものだったそのサンダルの片割れが見えなくなるまで見届けて、私は海から上がった。陸地に上がれば水で重たくなった服がしっかりと自分を留まらせてくれる碇のような気がして、これはこれで案外悪い気はしなかった。

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