ゲリラ豪雨の後の虹

久しぶりに虹を見た。夕立の後の虹なんていかにも夏らしくて風情があって良いなと思ったけれど、天気予報で夕立が降ると言っていた覚えはない。そういえば最近夕立という言葉を天気予報で聞かないなあと今更気付いた。代わりにゲリラ豪雨というワードをよく耳にするようになった。

ゲリラ豪雨。どうにも心安まらない響きである。ゲリラ、というと何だか物騒な感じがするし豪雨というのも災害のイメージが強い。夏の風物詩の印象がある夕立とは何かが違う。情緒がないのだ。分かりやすくいえば虹である。「夕立の後の虹」「ゲリラ豪雨の後の虹」。どちらがより見たくなる響きを持っているか。前者を選ぶ人が多いのではないだろうか。

カタカナ語の進出の一端とも言えよう。カタカナ語が溢れる現代、夕立という言葉ひとつがゲリラ豪雨にすりかわりつつあることに気付く人はそう多くはないだろう。この場合進出してきたのにはわけがあるが、改めて比べてしまうと日本語に合うのは日本語だなあと思わざるを得ない。他の国々に比べれば長くはないものの、世界に誇れる文化を作り上げるほど濃密な年月使われてきた日本語にはそれ相応の世界があるのだろう。進出したてのカタカナ語がやすやすと馴染める世界ではないということなのかもしれない。

しかし私としては夕立とゲリラ豪雨が全く違う事象だとはどうも思えない。情緒を犠牲にしてまで進出する必要はなかったのではないかとすら思える。そこで、こんなふうに考えてみた。言葉として捉えた時に夕立にあってゲリラ豪雨にないものが情緒だとすれば、ゲリラ豪雨にあって夕立にないものとは何だろう。ゲリラ豪雨という語の持つ災害のイメージは夕立よりも強く、思わず身構えてしまう力がある。それこそが夕立がゲリラ豪雨に変わっていった理由であり情緒より優先されるようになってきたものだ。

近年の異常気象の増加にみられるように、夕立も影響力が増してより災害を起こしやすくなっているのかもしれない。とするならば注意喚起の面から見ればゲリラ豪雨という言葉を使用する方が良いのだろう。しかしそれでもやはり、私は夕立の後の虹を見ていたい。

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