舞い落ちる蝉
蝉は落ち葉だった。
塾の帰り、人もまばらな夜道を歩いていた。空気が地縛霊みたいに重くまとわりついてくる。数メートル先で信号が青になったのが見えた。渡らなくちゃ、早く渡らなくちゃと足を速めて、前を向いて進もう、みたいな歌詞がイヤホンから聞こえていて、そして。
シャク。
あ、と思った。地縛霊にしがみつかれて身体がすっと冷えた。心の肌が栗立った。青信号だけがピカピカと光って見えた。信号をどうにか渡り切ってもなお、何かに追われているような焦燥に駆られて、足は止まらなかった。早く去ってしまいたかった。さっき確かに、何かを踏んだ。何だったのかなんて考えるまでもない。これだから夏は嫌いなんだ。至る所に蝉が転がっているから。白い腹を見せて、情けなく恨めしげに落ちているから。聞こえなかったはずの音が耳にこびりつく。一歩、また一歩、踏み出すたびに聞こえる。シャク。シャク。どこまでも軽い、乾き切った音だった。きっと死んでからかなり経っていたんだろう。消えない足の裏の感触と響き続ける音に苛まれる。地縛霊に捕らわれた右足が重い。
赤信号で立ち止まる。駅はもうすぐそこで、人気もいくらか多い。またアーティストがサビを歌う。前を向いて進もう。風が強く吹いて、歌声はノイズに掻き消された。葉が舞い落ちていく。木々がざわめく。雲がみるみるビルの向こうに消えていく。空気に怒りと悲しみが満ちている。四方八方から刺されているようだ。信号はまだ赤い。進みたいのに。縋るような思いで、食い入るように信号を見つめていて、はっと気が付いた。思い出した。赤だ。そうだ、落ち葉だ。忘れようもないあの音、あの感触。何かに似ていると思っていた。落ち葉を踏んだ時のそれとそっくりだ。ほっと笑みを零す。私がさっき踏んだのは蝉の死骸ではない。少し時期の早い落ち葉だった。握りしめ汗ばんでいた手のひらを生暖かい風が通り抜けていく。信号は青に変わっていた。木々はまだざわめいている。
今日は少し肌寒い。昨日と同じ道を歩きながら考える。昨日のまさに今頃、あの時、私の心理はひどく残酷だった。投かった。罪悪感と恐ろしさから逃げて、「安寧」を得て笑っていた。だが、それは本当に安寧と呼べるものだったのか?蝉の死骸と落ち葉との間にいったいどれほどの差があるというのだろう。どちらもそれぞれの生を全うした尊いものであることに変わりはないのに、葉だと思えば罪悪感が薄れ、いや、ほとんど消えさえして、笑っていられた。あのおぞましい転換は何だったのか。ほんの一日前の自分が、教科書で見た冷酷な独裁者と重なる。葉の命は軽いのか。優劣をつけて良いのか。踏みつけていい命の散り様などあるはずがなかったのに。
きっといつでも、私達はそうなのだろう。比べてはいけないものを無理に天秤にかけ、自分の首を傾けて満足しているのだ。自分が望む結果を観察できるように、天秤の前で首を左右に振るピエロだ。平衡感覚を失い、歪んだ視界で自分を騙して、自分を守るために心の安寧を保って笑っているのだ。
夏の終わりは嫌いだ。蝉が次から次へと舞い落ちる。葉も命を散らし始める。夏の終わりには、自分が何を踏みつけたのか考えなくて済んでしまう。逃げてしまえる。容易に自分を騙せてしまう。だから、秋が薫る冷たい風を、どこまでも高く暗い空を、睨み付ける。
信号が青に変わった。やや右に傾いたサラリーマンの後ろ姿。その向こうに地下鉄の入り口が光り輝いている。前を向いて。下は見ないで。行かなくちゃ。進まなくちゃ。帰らなくちゃ。足早に歩き出す。
シャク。
ああ、秋はもう来ていたんだな。
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