過去と傷跡とレモンケーキ

いろいろなことを考える。人生の選択について。過去、わたしがしてきた選択について、わたしはずっと「間違い」だという判断を下してきた。結局のところそれがどうだったのかというと、わたしが選ばなかった方の選択肢の先にあった未来は実現しなかったものなので、いくら考えてもしようがないという結論に落ち着く。

震災のこと。死んだ親友のこと。親友と出会わなければ、喪ったときにこれほど傷つくこともなかったし、その傷によって精神が病むこともなかった。けれどわたしと親友は文芸部で出会ってしまったし、震災は起きてしまったし、親友は死んでしまった。

彼女の死について、わたしは十年経った今でも、それがわたしにとってどのような意味を持つものであったのか、理解できずにいる。

トラウマだとかPTSDだとか言うのは簡単だし、実際そのような時期もあった。彼女の遺体と対面した安置所の記憶は、長らくわたしのこころを痛めつけた。しかし、最近はその悲しみも癒えてきているのを感じる。いや、むしろ、悲しみはすっかり風化してしまっていて、わたしの中で曖昧になってしまっている。生きている彼女と交わした言葉、一緒に過ごした時間さえ、わたしの中ではおぼろげになってしまっている。「親友の死」という出来事は確かな情報であったはずなのに、わたしが思い返す度にそれはどこかしら不完全な記憶になってしまって、記録に残っていない情報はただの記憶になって、ただの記憶はどんどんわたしの頭の中から抜け落ちていく。わたしは、昔のことをあまりよく覚えていない。高校のクラスメイトの名前もほとんど覚えていない。わたしが一番苦しかった時期、どんな気持ちでわたしが腕を切り刻んでいたか、そういうことすら覚えていない。

過去は次々死んでいく。大切な思い出も、思い出したくない思い出も、どんどんどんどん消えていく。

最後に残るのは「いまこの瞬間」だけだ。

いまこの瞬間、わたしは日曜日を過ごしている。昨日例のワクチンを打ったので副反応で熱が出て、一日を怠惰に過ごして、貰い物のレモンケーキを食べて、平山夢明の『メルキオールの惨劇』を読んで、いま、まとまらない気持ちでこのnoteを書いている。五時になったら晩御飯の準備を始める。六時になったら晩御飯を食べる。八時になったらお風呂に入る。十時になったら睡眠導入剤を飲んで眠る。

明日の朝起きたら、「いまこの瞬間」の日曜日は、既に過去になっていて、もともとあった過去の集積の中にうずもれていって、いずれは他の過去と見分けがつかなくなってしまう。今日の雨の日曜日に、わたしがレモンケーキを食べたことも、平山夢明を読んだことも、親友の死と同じように曖昧な記憶になって、全ては茫洋と流れていってしまう。今日の記憶は十年間も残るほど強烈なものではないから、もっとずっと早く消えていってしまう。

過去が消えていって、でも、その過去の中で繰り返ししてきた選択の集積の一番上に、いまのわたしが立っている。ぜんぜん覚えていない過去のわたしの選択の責任を取るために、今のわたしが苦しい思いをすることがある。

しょうがないよね。たぶん、人生ってそんなものなんだ。

最近は、わりと苦しくても、「人生はなるようにしかならないから」と考えるようにしている。

わたしの苦しみも、わたしの痛みも、そうなるようにしかならなかったからそうなったというだけで、後悔したって仕方がないものなんだよ。

左腕の自傷の傷跡をなぞる。べこべこの洗濯板みたいな腕。今年は半袖を着てみたいなと思う。

過去は過去だからね、仕方がないからね。