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僕は今、静かに試験開始の合図を待っている【短編小説】

何度もあきらめそうになった。苦しい夜も、やる気のない朝も。様々な日々を潜り抜けて、それでも僕は、試験日に受験会場に向かっていた。

もう資格学習をやめよう、これ以上はムリだ…と思う日もあった。仕事が忙しくて1日勉強を休むと、2日目に復帰するのがしんどかった。理解した箇所をすぐに忘れたり、暗記した箇所を忘れたり、そのたび自分の頭の悪さに絶望した。

そもそも、子供時代に勉強できなかった僕が、社会に出てから資格を目指すこと自体、間違いなんじゃないか? 合格率一桁の資格に受かるのは優秀な人間だけでは? …そんなことを、思っていた。

だけど、今なら、分かるのだ。全ては言い訳だったと。僕はどこかで、勉強をやめる言い訳を考えていた。「仕事が忙しい」「今はその資格を目指す時期じゃない」「資格よりも経験が大切だ」などなど。

振り返ると、すべて都合のいい言葉だった。勉強をやめるため。自尊心を維持するため。僕は昔からプライドが高かった。そのプライドを守るため、自分から目を反らすため、逆に自堕落に生きてきた。高校時代は全く勉強しなかったし、浪人して入ったFラン私大も中退。

親戚のコネで入社した地元の中小企業では、「君は営業に向いてないから」という理由で労務部に配属された。その頃、上司の影響もあり、社会保険労務士という資格に興味を持った。

少しでも自分を変えたかった。だからテキストを買って読んでみた。最初は面白く感じたけれど、労働安全衛生法という科目で挫折した。「なんだこの科目は…」

それでも、意地があった。社労士に合格して周囲を見返してやると思った。だから僕は、勉強を続けた。雇用保険と労災で勢いを取り戻したものの、社会保険科目で途方に暮れた。特に厚生年金が苦手だった。

独学がまずかったのかもしれない。だけど資格学校に申し込むお金はなかった。その時点で、甘い考えだったのかもしれない。YouTubeで関連動画を見たり、色々と工夫したけれど…何度もつまずいた。

日々の仕事だけじゃない。プライベートでも色々なことがあった。大学時代から付き合っていた彼女にフラれた。「自分の価値観を大切にしたい」と言われた。「ずっと言おうと思ってたんだ」と

彼女は上京して就職していた。田舎に住む僕とはその時点で心の距離が空いていた。だけど信じていた。いつか戻ってくると。最後のLINEで彼女はこう言った。

「結婚とか、まだ考えてないから。…ごめんね」

僕は深夜に頭を抱えて、叫びたくなる気持ちを堪えて、アルコールの力で眠りに就き、翌日、無表情に出社した。大人の世界では、何が起こっても、どんな事態に陥っても、表情を変えず、仕事をするらしい。それが常識らしい。

だから僕は、目の前の仕事に集中した。昼休みになれば会社を抜け出して、公園で昼食を取りながら、社労士のテキストを開いて勉強した。何かを忘れるため。全てを忘れるため。

トータル1,300時間は勉強したと思う。分からない箇所は暗記した。理解の努力はしたけれど、それでも分からない箇所は丸暗記で対処した。

この勉強方法が正しいかどうか分からないけれど、約1年間の勉強で、過去問を8周はしただろう。直前期には資格学校の模試も受験した。合格レベルぎりぎりだったけれど、何とか、合格を狙えるポジションには付けている。

そして僕は今日、試験日を迎えた。後悔はない。いや、後悔を言ったら切りがない。やるだけのことは、やったと思う。

資格学習中も人生は止まらない。色々なことがある。ありすぎる。だけど、つらいときも、何とか、前を向くことが出来た。資格という目標があったから。勉強している時は、その間だけは、全てを忘れられたから。

どうなるかは分からない。だけど、後悔はない。この日を迎えられたことに感謝している。合格の可能性を、少しでも信じられることに。

僕は今、静かに、試験開始の合図を待っている。


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