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怪奇探偵 白澤探偵事務所 特別編01

すこし不思議(ちょっとホラー風)な短編集です。特別編となっておりますが、単体でもお読みいただけます。
(2021年7月10日のイベントで頒布・公開を開始しました。10本の短編集です)

人外の探偵・白澤(しろさわ)と、視える助手・野田(のだ)のお話。一部作中の固有名詞に解説がありませんがご了承ください。

本編は以下のマガジンを参照ください。

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 最近の話

 エアコンの稼働音が低く鳴っている。タンクの満水を知らせる除湿機の音に呼ばれ、のろのろと立ち上がった。
 窓の外から射す初夏の日差しの眩しさと、梅雨の重たい湿気が事務所の空気を生ぬるくしている。タンクに貯まった水を捨て、再び除湿機の電源を入れた。
 鉄筋造りらしい白澤探偵事務所は湿度が溜まりやすく、一日のうちに何度か除湿機の面倒を見てやる必要がある。給湯室を兼ねた事務室である俺の作業場は、夏になると特有のじっとりした空気がある。
 除湿モードで稼働し続けているエアコンをぼんやりと見上げる。
 エアコンも除湿機も、俺が事務所に入った頃に白澤さんが用立ててくれたものだ。
 湿度が高いと不快指数が高まるから、と言って白澤さんは真新しい除湿機とエアコンを事務室に取りつけてくれたのだった。
 白澤探偵事務所に来る前、かつて働いた職場で自分ただ一人のために買い揃えられたものがあっただろうか。制服やちょっとした日用品を用意してもらうことはあったが、家電製品を用意されたことはなかったように思う。
 仕事をするなら快適な環境であることが一番だと白澤さんが言っていた気がするが、今思えば過保護であるような気もする。
 小さくノックの音がして、白澤さんが顔を覗かせた。
「野田くん。午後からお仕事で確認したいことがあるから少し打ち合わせをしたいんだけど、今時間あるかな」
 午後には来客が一件入っていた。家の近くで異音がするという依頼者がとにかく不安がっていて、オンラインでの相談ではなく事務所に来てくれる手筈になっている。
「飲み物持っていきますよ。コーヒー、アイスでいいですか?」
 白澤さんが打ち合わせをしようと俺を呼ぶときには、大体少しの雑談も混じっている。勿論仕事に関する話もあるから、本当におまけ程度の雑談だ。近頃は依頼の波が落ち着いて、俺も白澤さんもぼんやりと時間を持て余している。だから、これは話をしようというお誘いだ。そうとわかっていれば、飲み物があったほうがいい。
 よろしく、と白澤さんの声が僅かに弾む。自分の分も合わせてコーヒーの準備をして、白澤さんの待つ応接室まで向かった。

 打ち合わせは案の定すぐに済んだ。白澤さんは原因になるものの予想が出来ていて、原因自体はすぐに解決できそうだが依頼人の憔悴ぶりがずっと気にかかるらしい。俺の出番はあるだろうが、依頼人のケアは白澤さんの方がずっと得意だからあまり仕事はなさそうだ。
「野田くんも随分仕事に慣れたね」
「……そうですかね? 自分ではあんまり、変わった気がしないですけど」
「あまり怖がらなくなったよ」
 白澤さんがグラスを傾ける。グラスの中で、氷が軽やかな音を立てた。
 怖がらなくなったと白澤さんは言うが、本当にそうだろうか。自分ではまだ恐る恐る色々なものを視ているし、危なそうなものには近づかないように気を付けているつもりだ。それでも今までの人生の中で経験したことがない危険があまりに多く、白澤さんに助けてもらって何とか続いているというのが正しい。
「そう、ですかねえ……」
「本当に危ないものは持って帰ってこなくなったしね」
 思わずどきりとした。白澤さんの言い方からして、本当に危ないものを何度か事務所に持ち帰っていたことがあるらしい。視えるのに自覚がないから性質が悪い。いや、視ようとしなければ視えないから、自分自身で気が付いてすらいないのかもしれない。
「魔除けをする回数も随分減ったから」
 そういえば、事務所に入ってすぐの頃はお守り以外にも白澤さんにちょくちょく魔除けの煙を吹きかけてもらっていた気がする。
 それ以外にもしてもらったことはたくさんあったような気がするし、何かしらに遭遇したこともあるはずなのだが、すっかり忘れてしまった。怖がらなくなったというより、時が過ぎれば忘れてしまうようになったという方が正しいかもしれない。自分が忘れっぽい方だとは思わないが、喉元過ぎればというやつだ。
「もう全然覚えてないっすね……」
「私は結構印象に残ってるな」
「何がありましたっけ」
 そう話を振れば、白澤さんは顎に手を当て、首を傾げる。何から話そうかな、と迷っているような手つきだ。自分より自分のことを覚えている人がいるというのは不思議だが、自分の記憶よりずっと確かであるような気もする。
「色々あるよ。ゴミ捨て場で変な水槽を見つけたことがあったし、あとはそうだな……移動中の電車の中でまずいものを見つけてしまったこともあった。それに、勤め始めた頃はよく悪夢にうなされていたね」
 言われてみれば、そんなこともあった気がする。過ぎ去ってしまった恐怖なんて欠片も記憶に残っていない自分に、逆に驚いてしまう。
「他には何があったかな……」
 白澤さんがこれまでのことを思い出している間、俺も少し思い出そうと頭を働かせてみる。
 あれはいつだっただろう。白澤探偵事務所に来てからまだ間もない頃だったはずだ。
 ぼんやりと事務所の天井を見上げながら、記憶の底をひっくり返した。


 試用期間が終わった頃

「試用期間は終わったけれど、どうだい? 続けられそうかな?」
 業務が開始したのと同時に、オーナーが俺の顔を覗き込んでそう言った。
 試用期間と聞かれてもぴんと来なくて、思わず首を捻った。
 オーナーが壁にあるカレンダーへ目線を移す。追ってカレンダーを見て、白澤探偵事務所に入ってから今日で三か月目だとようやく気が付いた。
 そういえば、契約書に試用期間は三か月とあったような気がする。給料は変わらないけど念のため設けているとか言っていた気がするが、すっかり忘れていた。
 試用期間の後に採用するかどうか決めるのは雇い主であるオーナーだと思うのだが、どうして俺に聞くのだろう。やはり特殊な職業だから、従業員からも継続したいという意思確認が必要なのだろうか。
「はあ、まあ……大丈夫かなって思います」
「そうか。それはよかった」
 白澤探偵事務所は怪奇現象を調査することもある探偵事務所である。様々な種類の依頼があるのだとわかってからは、恐る恐る現場にいくこともあった。けれど、お守りを持たせてもらったり、オーナーが大抵のことは解決してくれるということもわかってきた。
 試用期間であろうがなかろうが、今までと同じように何かがあったらそっと逃げてしまおうと思っていた。今のところ、白澤探偵事務所ではその必要がなさそうな気がしている。
「早速だけど、そろそろ現場に向かうから車に荷物を詰んでおいてくれるかな」
「あの鞄だけで大丈夫ですか?」
 オーナーが指で小さく丸を作る。俺も了解の返事をして、仕事の準備を進めることにした。

 今日の依頼は貸家の調査だ。次に入居する人が来る前に鑑定して欲しいということで、白澤さんの運転で現地へ向かうことになっている。
 通常であれば依頼人の立ち合いがあるが、今回は俺とオーナーだけで家を視る手筈になっていた。どうやら依頼人は現場に来たくないらしい。そういうことも珍しくないのだろうと、この仕事の特別さを少し思った。
「あれが現場だね」
 オーナーの視線の先に、どこにでもあるような家がある。明るくも暗くもない、特段変わったところもなさそうな家だ。
 車は家をぐるりと周り、裏手に位置する駐車場へ入った。この駐車場も依頼人の所有物であるらしい。用事が済むまで車を停めておいて構わないとも言われていた。とにかく俺たちだけでどうにかしてほしい、というのはありありと伝わってくる。
 駐車場には空きありとでかでかと書かれた看板が掲げられていた。妙にがらんとした駐車場なのが逆に気にかかる。都内の住宅街であれば、もう少し車がありそうなものなのに。いや、出勤や外出に車を使っているのかもしれない。
「駐車場は関係ないんですか?」
「うん、土地には特に問題はないようだからね。野田くんもあまり違和感は感じない?」
 違和感がないと言えば嘘になる。
 がらんとした駐車場のど真ん中に、青いビニールシートをかぶせられた何かが置かれているのだ。大型のバイクくらいのサイズだろうか。車にしては小さいが、原付や小型のバイクよりはずっと大きい。
 いくら空いている駐車場だからといって、我が物顔で駐車場を占領しなくてもいいだろうに。しかも、雨除けをつけてまで駐車場の中央に停めておく意味はあるのだろうか。
 俺は邪魔な場所にあると感じるが、オーナーは何も言わないあたり気にならないのかもしれない。それを考えると違和感と言うには少し違うような気がして、小さく首を横に振った。

 家の中の調査を始める。目を瞑って、家の中を順番に視ていく。玄関、洗面所、手洗い、風呂場と順番に回っていく。
 リビングの扉を開いたとき、大きな窓から、裏の駐車場が見えた。
 ふと、ビニールシートのある位置が気になった。何となく、さっきと違う場所にあるような気がする。さっき停めたばかりの、俺とオーナーが乗ってきた車のすぐ近くにビニールシートがあるように見えたのだ。
 目を瞑る。視界の端、窓の外側にある光がずるりとこちらに近づいてきているような気がして、思わず振り返った。
 目を瞑る前と、ビニールシートの場所が違っている。ぞっと総毛だって、リビングの天井を見上げているオーナーへ声をかけた。
「オーナー、あの、あれ」
 近づいてきてませんか、と言おうとした俺の言葉を遮って、オーナーがしっと人差し指を立てる。それから窓の外を見て、ゆっくりと首を振った。
「あれはこの家を目指してるわけじゃないから放っておいていいよ」
「あれ、やっぱり動いてるんですか」
「夜中の間に消えてしまうだろうね」
 一瞬目を離したうちに、またビニールシートの場所が変わっている気がする。この家を目指しているわけではないにしても、動いているのが事実だとしたらどこを目指しているのだろう。何が目的なのだろうかとそわついた俺に、オーナーがやわらかく声をかけてくる。
「大丈夫、悪いものじゃないんだ。ただ、昼間のうちも移動したいからああいう形をしているだけなんだよ」
 目立ちすぎてるから後で何か対策を考えてあげるつもりではある、とオーナーは小さく苦笑した。たまたまそこにあるだけ、ということらしい。それならあまり心配しなくてもいいのかもしれない、とようやく不安な気持ちが少し落ち着いた。
「野田くん、この部屋には何かあった?」
「いや……特に、ないです。あと見てないのは二階で……」
「じゃあそれを確かめにいこうか」
 依頼されていた仕事は、この家の鑑定だ。まずはそれを済ませてしまおうということらしく、俺もはりきって二階を視た。
 階段の踊り場に強い光が頻繁に通り抜ける大穴を見つけて、オーナーに早速報告したところ車に積んできた道具であっという間にが補修を済んでしまった。
 事務所に帰る前、オーナーが駐車場のビニールシートにそっとシールを貼り付けていた。特別なものだったらしく、駐車場を出た頃にはビニールシートはすっかり見えなくなってしまった。結局あれがどこへ向かうのか、オーナーは教えてくれなかったと後から気が付いた。


 初夏の海

 白波が寄せては返し、海面が眩い日の光を跳ね返している。
 遠方からの依頼で、海沿いを走る鈍行列車に揺られていた。向かい合うように並んだボックス席に、オーナーと斜向かいに座っている。三両編成の列車には誰もおらず、ほとんど貸切の列車のようだった。
 依頼人の祖父が亡くなり、遺言状にオーナーを呼ぶよう書かれていたらしい。諸々の始末を任せるという大雑把な遺言だったのだが、蓋を開ければ怪奇現象を引き起こすものが大小様々出てきて、俺が視ながらオーナーがそれぞれに対処をするという大仕事だった。
 ただの鑑定だけならまだしも、形見分けだの、遺産を横取りするのかだの、横やりが多く苦労した。オーナーが言い聞かせると全員が大人しく帰っていくのだが、作業が中断されるのにはほとほと困った。
 電車の揺れが心地よく、穏やかな海の様子を見ていると段々眠気が押し寄せてくる。幸い目的の駅はまだずっと先で、しばらく眠っていても良さそうだ。実際、オーナーは電車に乗ってすぐに少し寝ると言って目を瞑っていた。
 何となく波立つ海から目が離せない。
 見られている気がする。
 きらきらと光を跳ね返す波間の中から、こちらをじっと見つめるような視線が向けられている気がしてならない。あそこに何かがあるような気がする。海の中から、見られているのは落ち着かなくて、眠れない。
 眠くて思考も随分ぼんやりしている。たぶん、眠気で光の加減を視線に勘違いしているのだ。だからこれは気のせいだと結論づけて目を瞑ってしまえばいいのだが、どうにもそれができない。
 突然、ぱっとオーナーが立ち上がって、窓に備え付けられたカーテンを降ろした。そんなに眩しかったのだろうかと驚いたが、直後電車はトンネルへ入る。
「野田くん、何かと目が合った?」
 少し焦った様子のオーナーに、思わず心臓が嫌な跳ね方をした。何かやったか、と聞かれるときは大体お叱りや小言が来る。今まで、どこにいっても大体そうだった。何をやってしまったのだろうと思いながら、小さく頷く。
「海から、見られている気がして……」
 荒唐無稽なことを言っている気がして、思わず口ごもる。オーナーはなるほどと唸り、カーテンを閉めた窓の外へ視線を投げる。
「海には陸に帰りたいけど帰れないものが結構あってね。野田くんが見つけてくれたから喜んでる」
「……それって、よくないことなんですか?」
「野田くんに付いてくるつもりなんだ。人間にくっついて回るには、少し重たすぎる」
 人間に、と言うオーナーの口ぶりに、そういえばこの人は人間ではないんだったと思い出す。春先に知ったばかりの、けれど実感があるようなないような事実に未だに新鮮に驚いてしまう。いや、人間ではない、と言われたら当然驚く。
 トンネルの外へ出た瞬間、ぞっと寒気がした。快晴だった天気は荒れ、遠くで雷鳴が響いている。カーテンの向こうから感じる視線は、さっきよりずっとはっきりしている。
「大丈夫、見つからないように私が隠しておくから」
「あの、俺が海を見てたから……なんですよね?」
 怒ってますか、ともごもごと口を動かせば、オーナーはわかりやすく目を丸くした。
「私が何か言うとしたら、野田くんではなくて海にいるものの方だね」
 怒られているわけではない、とようやく理解した。一仕事終わったあとなのに余計なことをしてとか、迂闊なことをするなとか、そういうことを言われるかと思っていた。けれど俺の杞憂のようで、ほっと息を吐く。よくわからない怪異も怖いが、ひとから向けられる感情もまた怖い。
「目を瞑って、少し眠っているといい。驚かせてしまって悪いね」
「……そうします」
 海を視ないように目を瞑る。遠くで鳴る雷鳴と、ざわざわと騒がしい風に意識を向けないようにしているうちにいつのまにか眠ってしまった。俺が目を覚ましたときには、空はすっかり晴れていた。


 煙草

 白澤さんは、空間の魔除けやお祓いに煙草の煙を使うことがある。どうやら特殊な葉を主成分としている手作りのものらしく、知っている煙草の匂いと随分違うことに最初は驚いたが、今ではすっかり慣れてしまった。
「野田くん、今日はちょっと瘴気が強いところにいくから煙をかけておこうか」
「あ、お願いします」
 すでに煙草をくゆらせていて、俺は黙って目を瞑る。ふうっと白い煙が向かってきて、一瞬息を止めた。草の匂いがする。普段白澤さんがつけている香水の匂いとは違う、花のような、青い葉のような匂いだ。
 煙を吹きかけられた瞬間、呼吸のタイミングを間違えると噎せてしまう。今日は少し間違えて、少し咳が出た。吸い込んだ瞬間、喉がぴりぴりと刺激されている感覚がある。
「いつも悪いね」
 残りを楽しんでいるのか、白澤さんは再び煙草を口元に加えた。
 煙草はあまり得意ではない。煙草を吸っているものだろうと変に誘われたり、無理やり吸わされたこともあって、苦手意識が拭えないのだ。けれど、不思議と白澤さんの煙草の匂いに不快さはなかった。
「……白澤さんって普段、いつ吸ってるんですか?」
「部屋で時々」
「……俺が来る前は?」
「リビングか部屋で吸っていたかな……」
 魔除けがてらね、と言って白澤さんは小さく笑う。煙草を持つ指先や、煙を逃がす仕草と所作の自然さが俺の持ちえない種類の動作で、物珍しさに思わずじっと見つめてしまう。白澤さんは俺が視ているのを気にせず、足を組みなおした。
「俺、見た目がこうなんでよく喫煙者に間違われて」
「そうなんだ。煙草の匂いがしないのにね」
「よくたかられたり、無理やり喫煙室まで引っ張られたりしたんですよ」
 もうもうと煙る喫煙室で飲む缶コーヒーは、妙な甘苦さがあったなと今は思う。当時は煙草の匂いに負けない味が強い飲み物、というだけの理由でコーヒーばかり飲んでいた気がする。
「そういうのがあったんで、煙草は苦手だと思ってたんすけど……白澤さんのは平気なんですよね」
「ニコチンが入っていないからかな? 魔除けでもあるから、野田くんにはいいのかもしれないね」
「……俺って普段から何か憑いてるんですか?」
 白澤さんは細く煙を吐く。ゆらゆらと漂って消える白い煙は、俺の周りにも届く。白澤さんは俺の問いに答えないまま、にっこりと笑った。つまるところ、普段から何かしら憑いているのだろう。それが祓われているから不快に感じないのだとしたら、まあいいことかもしれない。
「私の煙草が平気という人も珍しいから、私は嬉しいが」
 普通の煙草にはない匂いだし、勝手にいろんなものを祓ってしまうし、と言いながら携帯灰皿に吸い殻をぎゅうと押し込む。終わってしまった。煙草の残り香が、部屋に薄く漂っている。
「じゃあ行こうか」
 わかりました、と返事をして立ち上がる。仕事が始まる。帰ってからもお祓いしてもらったほうがいいのだろうか。道中聞いてみようと思いながら、事務所を出発した。


 水槽

 朝方、ふと目が覚めた。道路を通り過ぎるトラックの音でもなく、しつこく鳴くカラスの声でもなく、眠気のないすっきりとした目覚めだ。
 時計を見れば、目覚ましを設定した時間より三十分ほど早い。あまりにすっきりと目が覚めたからか、二度寝をする気にもなれずそのまま朝の支度にかかることにした。
 どうしてこんなに早く目が覚めたのだろう。何か予定があっただろうかとリビングへ出れば、寝る前にすっかりまとめておいた不燃ごみが鎮座している。
 そうだ、不燃ごみの日だった。昨晩の自分に感謝しながら空のペットボトルと不燃ごみ袋を取りまとめて家を出た。何となく目が覚めたわけではなく、やることがあるから体の方が先に目が覚めてしまったのかもしれない。
 昨夜は雨が降ったらしく、地面がところどころ濡れている。今日も午後から雨の予報で、空には灰色の雲が流れている。時折雲の切れ間から見える空の青さと日の眩しさはこれから来る夏を予感させて、少し憂鬱になった。
 夏は暑い。それだけで気が重くなる。冬の方が幾分かましだ。しかし、爽快なまでに晴れ渡る空はまあまあ好きだった。
 ゴミ捨て場へ降りると大小さまざまな不燃ごみが目についた。キャスター付きの引き出しがあれば、解体されたメタルラックもある。自分の持ってきたゴミを置いてさっさと帰ろうと袋を置いた瞬間、足元に異質なものがあることに気が付いた。
 中身の入ったままの水槽が、地面に直接置かれている。
 水槽の中は濁り、ゴミ捨て場だけでない嫌な臭いがしていた。
 思わず嫌な顔をしてしまった。水槽自体は不燃ごみだとしても、中身が入ったまま捨てる人もいるのか。水が入ったままの水槽は重いだろうに、どうして中の濁った水を捨てることをしなかったのだろう。
 まじまじと水槽を観察してしまう。金魚一匹入れるには大きく、かといってアクアリウムを作るには小さい。まあこの水槽が何に使われていたとしても、今ゴミ捨て場にあるということは恐らく手に負えなかったからなのだろう。
 あまりじっと見ているのもおかしいなとようやく気付いて、ゴミ捨て場を後にする。雲の切れ間から光が差し込み、妙に眩しい。雨雲はこちらに来るだろうかと空を見上げている間に、背後から水の跳ねる音がした。
 水槽の中に何か、いたのだろうか。
 振り返ろうとして嫌な予感がしてやめる。早くこの場を離れた方がいい、と何かに急かされている。
 びちゃん、と二度目の水が跳ねる音がする。つっかけのサンダルに水が跳ねた気がして、反射的にそのまま走り出した。事務所に戻るまで、一度も振り返らなかった。
「おや、野田くん。今日はずいぶん早起きだね」
「……ゴミ捨てがあったんで……」
 息を荒げながら家まで戻ると、ついさっき起きたらしい白澤さんがリビングで寛いでいた。
 走って帰ってきたからか、背中に汗が伝っている。軽く汗を流しておきたい、と洗面所に向かおうとしたところで白澤さんに声をかけられた。
「野田くん、ちょっと待って。今朝、海まで出かけたりした?」
「いや、ゴミ捨てなんで、すぐそこまで出たくらいですよ」
「……背中を見せてくれるかな? 余計なものが付いてる」
 白澤さんの金色の目が光る。一体、何が白澤さんにそんな目をさせているのだろう。返事をするより前に、くるりと背中を向けた。
「何がついてるんですか?」
 ふうっと背から煙が流れてくる。白澤さんの持つ魔除けの類だと気付いて、よほどまずいものがついていたらしいと知る。
 何度か煙を吹きかけられ、ようやく解放された。
「……あの、まずいものだったんですか?」
「海から拾ってきたような、迷子みたいなものかな……野田くんが帰ってきたとき、部屋に磯の匂いがしたんだ」
「ついさっき、水槽なら見ましたけど……」
 かいつまんでゴミ捨て場にあった水槽のことを話せば、白澤さんは少し考え込んでから口を開けた。
「野田くんなら助けてくれるかもしれないと思ったのかもしれないね」
「魚が?」
「魚が入っていたとは限らないだろう?」
 あの水槽に一体何が入っていたのか、結局白澤さんは教えてくれなかった。


 悪夢

 助けを求めた誰かの手をつかみ損ねて、目が覚めた。
 全身が冷たい汗をかいている。目覚めより一歩遅れて、心臓がばくばくと騒ぎ出した。息苦しくなるくらい、脈が速くなる。
 夢だ。夢だった。夢で良かったと言えれば良かったが、どうしてそんな夢なんか見たのだろうと自分を責めたくなる。
 全てを諦めるような、それでも助かることを望んだ悲鳴が耳に残っている。あれは、絶命を悟った悲鳴だった。大人の声ではなかった。子供の声だった。誰とも知らない人ではあったが、その手をつかみ損ねたのは確かに自分だった。
 体を起こす。ベッドから降りると、ぬるいフローリングが足の裏に触れた。時計を見る。いつも起きる時間よりずっと早い。けれどもう一度眠る気は起きなくて、せめて温かいものでも飲もうとリビングに出た。
 
 電気を点ける。ぱっと明るくなる部屋に少しだけ安堵した。
 ケトルに水を入れ、電源を入れる。体が冷え切っていた。指先の冷たさに、まだ秋にもなっていないのにと思う。
 夢の輪郭はだんだんぼやけていく。悪夢ではあるから忘れても構わないのだが、誰かの手を掴めなかったということが脳裏にこびりつく。早くこれも忘れたいが、こうして考えているうちは忘れないだろうとも思う。
 ケトルの内側からふつふつと音がして、電源を切る。ただ飲むだけなら、白湯でいい。沸かしきる必要もない。
 適当なマグに湯を注ぐと、淡く湯気が立ってすぐに消えた。両手で包むようにマグを持ち上げるとじんわりと暖かい。指先にようやく血が通った感じがして、ほっと息を吐く。
 ソファーにかけ、白湯を口に含む。喉が潤って、それで喉が渇いていたのだと知る。ゆっくりと息を吐けば、がちゃりとノブが回る音がした。
「……野田くん、早起きだね」
 寝ぼけ目の白澤さんが、俺を見て少し驚いた顔をする。なるべく静かにしていたつもりだったが、起こしてしまっただろうかと少し慌てた。
「すいません、起こしちゃいましたか?」
 白澤さんはゆっくり首を横に振り、俺の横にすとんと座った。トイレに起きたわけでもなく、なんとなく不自然な気がする。
「ついさっき、枕元に男の子が出てね。野田くんが助けてくれそうだから甘えてしまったと言うから、何だか気になって起きて来たんだけど……何か夢を見たり、ここで視たりしたかな?」
 思わず、マグを握りしめていた。居たのだ、と思うと背筋がすっと冷たくなる。
 悪夢を見たこと、あまりに鮮明に悲鳴が耳に残って眠れなくてこうしていることを早口に話した。白澤さんはそれをうんうんと聞きながら、最後に小さく息を吐いた。
「野田くん、目を瞑って。体に触るね」
「あの、ええと……」
「少しだけ、野田くんの傍に居る。ちゃんと帰るべきところに帰してやらないと」
 これはつまり、憑いている、ということだろうか。白湯が半分ほど残ったマグをテーブルに置いて、目を瞑る。
 白澤さんの手が、左肩に触れる。次いで右肩を、ぐっと握った。そのまま腕を撫で、指の一本ずつを確かめるように摩られる。
「頭、触るね」
 はい、と返事をする間に白澤さんの手がぐるりと俺の頭を撫でた。前髪を上げ、額に手のひらが触れる。他人の熱が触れるのは久しぶりだとぼんやり考えていたら、こつりと固い、けれどあたたかいものが触れた。驚いて一瞬目を開けば、白澤さんの顔が目前にある。伏せられた長い睫毛に、慌てて目を瞑った。
 額を合わせるなんて、ひととしたことがあっただろうか。ずっと昔に母にされたことがあったような気がするのだが、記憶があるようなないような、おぼろげな記憶だ。自分が弟にしたことはあったと思うけれど、それも随分昔のことだ。
 しばらくそのまま待って、それから白澤さんが離れる気配があった。一瞬、線香のような香りが漂う。
「もういいよ、目を開けて」
 恐る恐る目を開くと、眠たそうな白澤さんが目に入る。線香の匂いはすでに消えていて、試しに周囲を視てみたがいつもと変わらないリビングの風景があった。
「……終わったんですか?」
「うん。帰ってもらったから、もう大丈夫」
 もう夢に出ないよ、と言って白澤さんは穏やかに微笑む。俺にはわからないが、白澤さんが言うならそうなのだろう。
「野田くん」
 白澤さんの手が、俺の手をぎゅっと握る。握手というより、掴むみたいな感じだった。
「手を掴まなくてごめんと謝っていたよ」
「そう、ですか」
「さ、もうベッドに戻ろう……朝になってしまうからね」
 眠気がまだ遠く、眠れそうな気がしない。マグに残った白湯のこともあるし、もうしばらく起きていると言うと白澤さんは俺の目をじっと見た。
「もう少し付き合うよ」
 ほんの少し、まだ一人になるのは不安だった。白澤さんは俺が白湯を飲み終え、落ち着くまで一緒に居てくれた。
 落ち着いたらようやく眠気も戻ってきて、部屋で眠ることもできた。もう夢は見なくて、目覚ましが鳴るまでぐっすり眠れた。


 プール

 プールに出るんだという話は依頼人である校長先生に聞いていた。
 冬のプールは水が枯れていた。こんなプールに何が出るのだろうと思うが、とりあえず視てみないことには何もわからない。白澤さんはプールの外周をゆっくり歩いている。何かないか探している、という様子だ。
 目を瞑る。プールのどこにも、何かがあるような感じはしない。ここには何もないんじゃないか、と目を開ける前の一瞬、俺の隣あたりが弱く光った感覚があった。
 塩素の匂いがする。何となく嫌な予感がして顔が上げられない。白澤さんの足音は遠く、こちらの様子に気が付いてはくれなそうだ。
 すぐ隣に、誰かがいる。恐る恐る隣を見れば、青白い顔をした少年が座っている。よく見れば、膝に抱えたタオルがびっしょりと濡れている。タオルどころか、隣からじんわりと塩素を含んだ水がベンチ越しに流れてきて慌てて立ち上がった。
 少年はじっとプールを見つめている。白澤さんがこちらに気付いて、小走りになった。ふと見ればプールにはきらきらと日の光を跳ね返す水で満たされている。
「白澤さん、あの……これ、一体どうなってるんですか」
「野田くん、離れて」
 私の後ろに居て、と白澤さんに言われて慌てて少年から距離を取る。白澤さんはじっと少年を見て、それから一歩近寄った。
「……駄目だな、もう剥がせない」
「なんか、良くない感じなんですか?」
「土地に根付いてしまっているんだ。地縛霊というやつだね。これは私より得意な人がいるからそっちに仕事を回そうかな」
 私だと時間がかかりすぎる、と言う白澤さんの後ろで少年が立ち上がった。思わずあっと声を上げると、白澤さんは口元に小さく指を立てる。静かに、という指示だと気付いて口を閉じた。
「……悪さはしないよ。けれど、ここにずっと居させるのは酷だ」
 少年はまっすぐプールに向かうと、迷うことなく水面に飛び込んだ。少年がプールの底に着くのと同時に、プール一杯の水も少年も消え去った。
 後に残ったのは寒々しいプールと唖然とする俺ばかりだった。


 それって何ですか?

 新宿駅で、白澤さんと待ち合わせをしていた。
 東改札を出てすぐ、ルミネの閉じたシャッターに背を預けていた。足元には依頼人から預かった紙袋がある。白澤さんに会うまでは開けるなと言われていたから、中身は何なのかわからない。
 白澤さんが高田馬場を出たという連絡を貰ったのが五分ほど前だから、そろそろ着く頃合いだ。改札の方へ視線を向け、人が流れていくのを眺める。
 顔を上げた瞬間、向こうから歩いてくる男と目が合った。マスクをしているから年がはっきりわからないが、俺と同じか、少し若いくらいだろうか。ワイシャツの袖を捲り、ぱんぱんに膨れたバックパックを肩から下げている。
 俺の方からはすぐ視線を逸らしたが、男はそのままじっと俺を見ている。見ているばかりか、俺の方に向かってきているように感じる。
 厄介な人間に絡まれるのは面倒で、とりあえず移動をしようかと足元の紙袋を持ち上げたところで男が目の前に立ち止まった。
「それって何ですか?」
 こういう手合いには返事をしてはならない。聞こえていないふりをしたまま、ゆっくりと歩き出す。
「ねえ、聞こえてるんでしょ? それって何ですか?」
 聞こえているが、それが何かは本当に知らないのだから答えられない。先に事務所に帰るか悩んだところで、白澤さんが改札から出てくるのが見えた。思わず、足を速めていた。助かった、というのが正直な気持ちだ。
「それって何ですか? 知ってるんですよね、持ってるんですから、ねえ」
「……白澤さん。あの、これが依頼人から預かったものなんですけど……」
 変な人がついてきちゃって、と目線だけで伝える。白澤さんはちらと俺の後ろにいる男を見て、金色の瞳を丸くした。
「すまないね。これは処分対象だから誰にもあげられないんだ」
「……あなたはわかってるみたいですね」
「そりゃあ、そうだろう。だから帰りなさい」
 男はすぐに興味を失ったようで、踵を返して去って行った。混乱している俺だけが置いていかれているのだが、一体この紙袋の中に何が入っているのかまだわからない。
「……白澤さん、あの……これ、中身って、何なんですか?」
「野田くんにはまだ教えられないな」
 いつの間にか、俺の手にあった紙袋が白澤さんの手に渡っている。視れば、何かわかるかもしれない。ただ、白澤さんの目がそれを制しているような感じがして、知らないままでいることを選んだ。


 冷蔵庫

 朝起きたら、リビングにガムテープで封をされた冷蔵庫が鎮座していた。
 瞬きをして、それから目元をぎゅっと抑える。目が疲れているのだろうか。それとも余計なものが視えてしまっているのだろうか。
 再び目を開けても、冷蔵庫はそのままだった。
 ブーン、と低い稼働音がしている。どうやら古いタイプの冷蔵庫らしく、ドアを抑えるゴムパッキンがひび割れてしまっていた。それでも冷蔵機能は使えるんだなと思うと、少し不思議な気がする。
「すまない、説明してなかったね」
 白澤さんが部屋から出てきて、冷蔵庫にぐるりとガムテープを巻く。ただのガムテープのようだが、そんなに幾重にもガムテープを巻いておかないといけないようなものなのだろうか。
「エチゴさんからの頼みで、今日の夕方までここに置いておくことになったんだ」
「ずっとあるわけじゃないんですね。よかった」
「うん。それで、できれば……野田くんは自分の部屋に居てもらってもいいかな」
 何となく、嫌な予感がした。こういう時は白澤さんの言うことに従っておいた方がいい。視るのもできればやめておいたほうがいい。
 なのに、なぜか振り返って冷蔵庫を視てしまった。
 冷蔵庫の稼働音に交じって、かり、かり、と何かを引っ掻く音が聞こえる。何かがそこにある。そこにある、ということがわかった瞬間、ぞっと背筋に悪寒が走った。
 ここに居てはいけない、と俺の体が言っている。白澤さんに返事をして、それからすぐさま部屋に逃げ帰った。
 ドアの向こうから、ガムテープを引くビーッという音が聞こえる。白澤さんが何重にも塞いでいる音だ。一体何を出てこれないようにしているのか、そこまで知る気は起きなかった。

 コインロッカー

 思い出してみると、案外あるものだ。白澤さんから聞いた分も含めると、白澤探偵事務所に来て、色々なことを視るようになってからは明確に今まで遭遇しなかったものに出会っている気がする。
 白澤探偵事務所に来る前には何かあっただろうか。視えなかったし、近くでそういうことが起きることもなかった。よくありそうなのは学校の怪談だとか、そういう普遍的にどこにでもありそうなものだ。
 いや、思い当たることがある。今思えばあれも怪奇現象の一つだったのかもしれない、という程度の記憶だ。
「白澤さんに話したことありましたっけ、コインロッカーの話」
「……いや、初めて聞くね」
 そんなに面白い話じゃないんですけど、と前置きをしておく。
 実際、どこにでもあるような噂話なのだ。はっきりとした始まりもなければ、終わりもない。曖昧なほうが怪談らしいといえばそうなのかもしれない。

 地元の駅に、ずっと閉まったままのコインロッカーがあった。
 駅構内でも特に薄暗い場所にあるロッカーで、そもそも利用者は多くなかった。けれど、必ず一つだけ、使用中のロッカーがあった。
 今となっては、いつも同じ人が使っていたのだろうと想像できる。週末だけ取り出しに来るとか、毎日決まったものを持ち運ぶ人は案外多いのだ。
 ただ、駅を使っていた頃は高校生だった。高校生にコインロッカーを使う人の事情など推測できるはずもなく、すぐに変な噂が立った。高校生が喜んで広めるような、くだらない、ろくでもない噂だ。
 赤ん坊が捨てられている、という噂だった。コインロッカーベイビーという言葉を知ったのは後のことだ。あんまり俺たちが噂話をするものだから、学校にぎっちり締められて、それで詳しく教えられた。
 社会現象として、子捨てが行われたということ。そこから転じて、怪談噺としてできあがったこと。なるほど、誰かが赤ん坊が捨てられているんだ、と言い出したのはこの話を薄っすらと覚えていたからなのかもしれない。
 卒業までの間、ロッカーはずっと閉じたままだった。長期間引き取りに来ない場合は駅員が開けるはずなのに、不思議とそのロッカーだけは閉まったままだったのが印象に残っていて、閉じていたロッカーの番号も思い出せる。こじ開けてみようかというやつは居たが、別に中身を知りたくなかったから混ざらなかった。
 結局ロッカーが開いたのかどうか、俺は知らない。

 一息に話し終えると、白澤さんは腕を組んで口元を抑え、それから俺へ短く視線を投げた。
「……野田くん、ロッカーの番号を覚えてるって言ったよね。何番だったか覚えてる?」
「103のロッカーでした。何か妙に目についたんで、はっきり覚えてます」
「それって、――駅かい?」
 よく使っていた駅の名前が白澤さんの口から出てきて、驚いた。そうです、と早口に返事をすれば、白澤さんは納得したように頷く。
「そのロッカー、私が開けにいったな。誰かが締めて、鍵を返さないからいつも閉まっているって言っていた気がする」
 白澤探偵事務所には、時折探偵が解決するような事案ではない相談事が持ち込まれる。そういうのは決まって、白澤さんの取り扱うのに適切なものが含まれている。例えば、幻永界に関わるものや、怪奇現象がそうだ。
「あの、話せない決まりだったらいいんですけど……中身、教えてもらえませんか?」
 ロッカーをこじ開けることに賛成はしなかったが、あのロッカーに何が入っているのだろうとは思っていた。意外なところで答えが得られそうで、少しそわそわしている。
「何もなかったよ」
 白澤さんが僅かに目を細め、困った顔をして言う。言えるものは何もない、ということだろうか。それともすっかり空っぽだったのだろうか。何かあるのだろうと思っていただけに、少し残念な気がする。
「野田くんはあまり、知らない方がいいと思う」
「……わかりました。いや、高校時代のよくわからないロッカーのその後がわかるなんて思いませんでしたよ」
「私も驚いた」
 ずっと喋っていたからか、喉が渇いた。何かを飲もうと台所へ立ち、冷蔵庫を開けた瞬間、バタン、と金属の扉が閉まる音がした。
 はっと顔を上げる。白澤さんを振り返るが、変わった様子はない。そもそも、金属の扉はこの部屋にはない。この部屋にないものの音が聞こえるなんて、そんなことがあるだろうか。
「野田くん。さっき話していた、今日の依頼の話なのだけどね」
 午後の来客についてだ。家の近くで異音がするという依頼者がとにかく不安がっていて、オンラインでの相談ではなく事務所に来てくれる手筈になっている。約束の時間までは、まだ余裕がある。
「こういう音がするそうなんだ。ばたん、ばたん、とロッカーの扉を乱暴に閉めるような音がする、と」
「……白澤さん、もしかしてなんですけど……」
 依頼者の近くにあったであろうこの異音の正体を、既に事務所で引き取っているのではないだろうか。白澤さんならそういうこともできるだろうと思ったから口にしたのだが、白澤さんはゆっくり首を縦に振った。
「よくわかったね。倉庫のどこかに居るから、片付けてしまおう」
「……了解っす」
 白澤さんは、俺が怖がることが減ったと言っていた。
 俺はまだ全然怖がっているつもりだったが、倉庫へ向かう足取りはそこまで重くもない。確かに白澤さんの言う通り、あまり怖がってはいないのかもしれない。仕事として失敗しないようにしなくては、ということのほうを考えていることが多いかもしれない。
「じゃあ野田くん、よろしく」
「はい」
 目を瞑る。瞼の奥で視界が切り替わる感じがあって、倉庫の中にあるだろう見慣れない光を探す。
 もう恐怖より仕事としての意識が強いのだとしたら、白澤探偵事務所の助手としての仕事が身についてきたのかもしれない。普通の仕事からは随分遠くへ来てしまったと内心苦笑しながら、けれど、だからこそここに居たいと思うのかもしれないと考えていた。