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To my dear...

 別に、不満はないが。
 窓の外を流れていく景色と、右側に座る広樹(ひろき)を見ながらふと考えた。
 大学院の入学祝にと買ってもらったらしい軽自動車はそれ程新しい型ではなく、乗り心地もまあまあといったところだ。もちろん、ケチをつける気は一切ないし、消臭剤だろうか、ラベンダーの匂いも好きではないが、我慢できないという程ではない。何より子供みたいにはしゃいで運転する広樹を見ていると、やはり可愛らしいとは思う。
 今回、泊りがけの旅行に行こうと誘ってくれたのは広樹だし、計画を立ててくれたのも広樹だ。そういう細かいことが苦手な私のことをよく知っているし、それはとてもありがたい。気にしなくていいよ、と言ってくれるところも含めて。
 だから、不満はないのだ。
 付き合い出して3年目。出会った頃は大学生だったが、私は社会人になり、広樹も大学院生になった。浮気は3年目と相場が決まっているし、環境が変わるから、と心配もした。結局それは杞憂に終わり、広樹は今も優しい。
 優しいのだが。
「理恵(りえ)、疲れた?」
 口数が少ないくらいで彼女の変化に気付く、細やかな神経の持ち主ではあるのだが。
「ううん、何でもない。広樹こそ、大丈夫?」
「俺は大丈夫。ここから3つ目のサービスエリアがそこそこ大きいし、時間もちょうどいいから、昼ご飯にしようか」
「そうね」
 広樹の方も見ずに、少し返事が素っ気なさ過ぎただろうか。こっそり横顔を覗き見るが、不機嫌な様子はない。そもそも付き合い出してから、広樹の不機嫌な顔など数える程しか見たことがないのだった。
 そういうところも好きなのだが。
 法定速度で走る車がやけに遅く感じた。

***

 好きと言われたから好きになった、というのが私たちの馴れ初めに関する一番正しい説明だろう。
 私は広樹の前に彼氏はいなかったし、それどころか好きな人というものがいたこともない。だから、情熱的な広樹のアプローチは嬉しかった。嫌いでなかったから付き合おうと言われて頷いた。
 長く一緒にいれば情も湧くし、嫌いな相手ではないから邪険に扱うこともしない。広樹は、惚れた弱みというやつだろうか、一度も愛情を途切れさせたことはない。
 世間的に見れば、私たちは上手くやっている方だと思う。お互いに気遣いはあり、喧嘩もほとんどしない。
 ただ、何かが足りないのだ。足りないという表現が正しいのかもわからない。本当に不満はないし、お互いのことは何もかも見せ合っている。だから余計に何が足りないのかがわからなくなるのだ。
 3年目ってそんなものだよ。
 一足先に結婚した先輩の言葉が脳裏をよぎる。ならば、これが3年目にふさわしい落ち着きだ。ぬるま湯につかり、のんびり過ごすような日常が3年目のあるべき姿なのだろう。
 だから私は広樹のことが好きなのだと、そう思う。
 そう思うことにしている。
「行こうか」
 いつの間にか車は停まっていて、助手席のドアの横に広樹が待っている。お盆のサービスエリアはかなり混み合っていて、はぐれないだろうかと年不相応な不安を抱く。
「ほら、行こう」
 差し出された手は繋ぐのが当たり前で、その時は嬉しそうにするのが彼女の仕事。
「うん」
 温かくしっかりした手で、多分これは安心という感情なのだと思う。

***

「岡崎(おかざき)、来週の資料は?」
 斜め向かいの席から意地悪な声が聞こえてくる。
「もう、締め切りまでまだあるじゃないですか。私だって何度も同じ失敗はしません」
 パソコンで顔は見えないが、きっと笑っているのだろう。肩がふるえている。
 入社した私の教育係――尻拭い係とも言うが――になったのは2年先輩の木村(きむら)さんだった。
 最初のうちこそ叱られてばかりだったが、何のことはない、私の出来が悪すぎただけらしい。最近ではこうして冗談めかした会話ができるようになり、悪い人でもなかった。
「木村さんこそ、明後日のプレゼンは?」
「俺はデキる男なの。もう完璧」
「そんなこと言って。この間、取引先に危うく資料を忘れそうになったのはどこの誰でしたっけ?」
「最終チェックで気付いたんだから、ノーカンだ」
 憎まれ口をたたいても、仕事にすごく気を使う人であることを私は知っている。もう少し謙虚な態度を覚えればいいのだろうが、そうなってしまった木村さんを見たいとは思わない。
 手元を見ていたから、急に立ち上がった木村さんに少し驚いてしまった。
「な、何ですか?」
「電話。と、ついでに一服」
 動いた空気と一緒に微かに感じる匂いは何という香水なのだろう。嫌味ったらしくなくて、人によっては冷淡だと言うかもしれないくらいのそれは私のお気に入りだ。雪の降る前の冷え切った空気の匂いがする。
 付け加えるなら、ネクタイの趣味も悪くない。今日は淡い青の小紋で、ネクタイピンによく合っている。
「馬鹿野郎、ぼーっとするな。手を動かせ」
 今晩は飲み会だから残業はなしだぞ、と足早に出ていく木村さんも何だかいつもより忙しそうだった。

***

 木村さんについて、私が知っていることは少ない。会社の先輩とはいえ、プライベートで付き合いがあるわけではないのだから当然だ。
 今年26歳で独身。彼女がいるかどうかは知らないが、香水の趣味などを見るに、いるとは思えない。仕事は真面目で、どちらかといえば慎重派。知っていることといえばそんなところだ。どこに住んでいるかも、食事の好みも、何も知らない。
 だから、嫌いになるような情報は持ち合わせていないだけだ。
 そうは思うのだが、なぜか目が離せない。
「飲まないんですか?」
「飲めないの。俺、車だから」
 課の中で一番下っ端なのは私で、その次が木村さん。自然席は向かい合う。
 少しつまらなさそうにウーロン茶など飲んでいるが、急な飲み会だったから仕方ない。先程からずっとつまんでいることを思えば、多分枝豆と塩辛が好きなのだろう。おそらく呑み助だ。
「岡崎は電車か?」
「そうです。ここから1時間くらいです」
「遠いなぁ」
 そこで会話は途切れる。上座は盛り上がっているらしいが、下座は早く終わらないかとそればかり考えていることが手に取るようにわかる空気だ。
「おーい、二次会どうするー」
 多分お調子者で通っている先輩が誰へともなく叫んだ。ちらほらと帰るという声が上がったのに乗じて私と木村さんもそっと帰宅に手を挙げた。

***

「送ろうか?」
 店の駐車場で煙草を吸いながら木村さんは言った。
「そんな。さすがに悪いですよ、先輩を足に使うのは。私、飲んじゃったし……終電、まだ先ですから」
「女には見えんが、仮にも若い女だろ。方面は同じだから、一人も二人も同じだ」
「でも……」
「何だ?」
 なぜ急にそんなことを言い出したのか、その真意は知れないが、あまりしつこく断るのも悪いような気がした。
「じゃあ……お願いします」
 踏み出した場所は段になっていたらしく、ぐらりと身体が揺れた。
「危ない。だからあんまり高いヒールなんて履くもんじゃないって」
 差し出された手はあまりに冷たくて細かった。
 私は怖くなって慌てて手を引いた。これは確かに私が知っている冷たさだ。
「早く乗れ」
 そう言って木村さんが指したのはずいぶんきつい顔立ちをした車だった。左へ回ろうとすると、そっちじゃないと叱られた。
「独身貴族の道楽だよ。ま、金の使い道を他に知らないとも言うけど」
 静かに動き出した車は赤い尾を引きながら国道を滑り出した。スピードが出ていることは酔っていても、メーターを見なくてもすぐに知れた。
「結構なスピードですよね、これ」
「ドイツ製だからなぁ。日本の狭い道路を走るために設計されたわけじゃないから、ちょっと踏むだけでも加速するし」
 くっと掛かった重力とともに景色が数コマ飛ばされる。あまりの心地よさに、喉の奥で呻き声が漏れた。
「な?」
 短い問いかけに上の空で頷きながら、私はテールランプの眩しさに目を閉じた。

***

「ここでいいのか? 家まで……」
「いえ、彼氏が迎えに来てくれますから」
 別に広樹は会社の先輩に送ってもらったと言えば、気にもとめないに違いない。そういう人だということはわかっている。
 私が広樹に会わせたくなかった。後ろめたい原因は、多分私にある。
「じゃあ。明日、遅刻するなよ」
 車はすぐに夜の闇に溶けた。
「理恵、お帰り」
 ほとんど同時に広樹の声が聞こえた。
「うん、ただいま」
 乗り込んだ左側も、甘ったるいラベンダーの臭いも。
「理恵、こっち向いて。目閉じて」
 首筋に触れる手も。
「ごめんね」
 知らなくていい違和感だったかもしれない。でも、知ってしまえばそれまでだ。
 気付かれないように手を払いのけ、私は広樹に向き直った。
「あのね、話があるんだ」

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