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アフタヌーン・ティーは君と

 式が終わった大講堂からは蜘蛛の子を散らすように生徒たちが飛び出していく。ついさっき放り投げた角帽をかぶって、手には三年間の学業を証明する紙切れを握りしめて。
 彼らは長い寄宿舎生活を終えて、父母の待つ門の方へ走っていくのだ。ある子は誇らしげに、ある子ははにかみながら、ある子は無関心を装いながら。
 でも僕には駆け寄っていく相手がいない。
「オースティン。君は何時の列車かね」
 カラー先生がいつの間にか僕の後ろに立っている。
「五時です。少し時間がありますから、寮で待っています。叔父が駅まで出迎えに来てくれるはずなので」
「そうか。いや、卒業おめでとう。君は優秀な学生だった」
 僕はその言葉をどこか後ろめたい気持ちで聞いた。僕は確かに優秀だったかもしれないけれど、それは学業の面でだけだ。一少年としての僕はただ求めるばかりで、誰かに求められると逃げるしか出来ない弱虫だった。
 先生と別れ、僕は一人昨日まで使っていた部屋に向かった。窓辺の景色だけが取り柄の十三号室。食卓代わりの古いテーブルも、傷跡だらけの机も、僕の隣のベッドはもう長く主を待ち続けている。それは僕も同じだ。
『クリス』
 ちょっと舌足らずな甘い声で彼が、エドワードが僕をもう一度呼んでくれるのを僕はずっと待っている。

***

 エドワードは二年目の冬、突然転校してきた。土曜日の昼間のことだ。本を開きながら読むでもなく、ぼんやりしながら何を考えるでもなく、僕は手持無沙汰にしていた。
 寮内でも指折りの優等生で通っていた僕は、その年の秋から一人部屋をもらったばかりだった。その年は寮生が殊に多く、他に部屋の空きはなかった。
「オースティン、紹介しよう。エドワード・フォースター。転校生だ。分からないことばかりだろうから、君、しっかり面倒見てやってくれ」
 カラー先生に連れられてきた転校生とやらは、息を呑む程きれいな男の子だった。名前や胸元のネクタイがなければ、きっと女の子だと思っただろう。柔らかな面立ちや細い腰はギリシャ神話の少年たちを彷彿とさせた。
 少し長い金髪を赤いリボンで束ねている。深い湖水のような瞳はほんの少し疲れているように見えた。長旅の後では仕方ない。小首を傾げ、まるでナイチンゲールのような声で挨拶をし、細い手を差し出した。
「君がクリス・オースティン? 僕はエドワード・フォースター。よろしく」
 薔薇の蕾が綻んだような唇に僕は少し当惑し、そして魅せられた。
 その夜、僕たちは時間を忘れて様々なことを語り合った。エドワードは早くに母親を亡くして、多忙な父親と二人だということ。父親の仕事の都合でロンドンからここ、エディンバラの郊外へ引っ越してきたということ。前の学校は寮制ではなかったので、仕方なくこの学校に来たのだということ。
「だからさ、僕は厄介払いされたようなものなんだよ。父には新しい相手もいるしね。仕事の都合なんていうけれど、僕を家から追い出す口実が欲しかっただけだ」
 そう言ったエドワードの横顔は少し寂しそうだった。母のいない境遇は僕と同じだ。薄っぺらい同情かもしれなかったけれど、僕は彼に寄り添ってみたいと思った。
 エドワードはそれから間もなく学校中の評判となった。カラー先生のドイツ語のレポートで今まで誰も取ったことのない優の評価を取ったのだ。その容姿と合わせて噂はどんどん広まった。
「偶然だよ」
 そうは言うけれど、確かにエドワードは優秀だった。
 中にはその才能に嫉妬した者もいたようだけれど。例えば、ウィリアム・ハーシェル。彼もまた、成績がよかった。そしてエドワードを親の仇の如く嫌った。思うに、努力家の彼はエドワードが大して努力もしないのに成績がいいのが気に入らなかったのだろう。エドワードは要領がいいだけで、決して努力していなかったわけではないのだが。
 いつだったか、エドワードがひどい怪我をして帰ってきたことがあった。どうしたのかと尋ねても黙っているばかりだった。ただ、怪我の様子から何となく想像はついた。ウィリアムがこんなことまでやるような奴だとは、と呆れつつ、僕は救急箱を探した。
「放っておけば治るよ」
 そう言うエドワードを僕は無理やりベッドに座らせ、手当てをした。痛みに顔を歪ませる度に、僕の背筋にぞくりと震えが走った。
 この小鳥は籠の中に閉じ込めて、決して目を離してはいけない。僕は愚かにも彼を自分のものにしたいと思ったのだ。その時は確かに忘れていた。籠の中の小鳥は見捨てた途端に死んでしまうものであると。
 ルームメイトとしてもエドワードは非常に気持ちの良い相手だった。聡明な彼とは話が合った。食堂で、サロンで、教室で、僕たちの部屋で、少しの暇さえ見つかれば僕たちは様々な議論をした。他愛のない議論だったが、彼の甘い音色に乗せられる言葉は、それだけで僕を捕らえた。そして話題が尽きそうになれば、彼に口を閉じさせるまいと、また僕たちは取り留めもない話を続けた。
 ティータイムもよく一緒にとった。土曜日の午後は二人ともこれといった予定がなく、講義が終わると二人で部屋に急いだ。窓辺の、食卓と呼ぶにはあまりに貧弱なテーブルにお茶とお菓子を置いて。
 お菓子はいつも違っていたけれど、お茶は決まってアッサムだった。エドワードが好きだった。優雅な手つきで薬缶から湯を注ぎ入れる古風な柄のカップはエドワードが持ってきたペアのものだ。誰と使っていたのかを考える度、僕の胸は少し痛んだ。
「上手いんだね」
「クリスが飲むんだと思うと、そりゃ、美味しく入れたいと思うよ。アフタヌーン・ティーは君と、って決めている」
 冗談だか何だかわからない言葉でいつも僕を煙に巻いた。今思えば、冗談でも何でもなかったのに。僕は彼が時折寄越す熱っぽい流し目に、物憂げな吐息に気付かなかった。
 それだけ幼かったのか、それとも故意に気付かないふりをしていたのか。もしかしたら、答えられない想いに気付いてしまうのが怖かったのかもしれない。
 僕は、確かにエドワードに惹かれてはいたが、しかし仲の良いルームメイトという関係は壊したくはなかった。僕の気持ちはエドワードが僕に抱いている感情とは別物だったのだろう。僕は間違いなく友情でないものを求めた。ただそれは、今思えば友情よりもほんの少し純粋な関係に過ぎなかったのだ。
 あの時から僕はそのことを本能的に悟っていたような気がする。そうでなければ、自分のものにしたいとさえ思った相手のあんな分かりやすい仕草に気付かないなんてこと、あるわけがない。
 春、アネモネが咲き始めた頃、僕はダイアナに出会った。上級生のお使いで街に出た時だった。小さなお菓子屋のショーウィンドウでこぼれるような笑顔を振りまいていた。
「あら、いらっしゃいませ。何にしましょうか?」
 あんまり長く覗いていたからだろうか、客と間違われたようだ。くるくると愛らしい目が僕を見つめた。断るのも気が引け、僕はアップルパイとプディングを買って帰った。
 その日のティータイムにお菓子は食卓に上った。
「美味しいね、これ。どこで買ってきたの?」
「うん、街に出た時に」
 詳しく話すのは躊躇われた。エドワードもそれ以上は聞かなかった。
 それから僕はダイアナのいるお菓子屋に通いつめた。ダイアナは田舎の小さな農家の出身だと言った。確かに小生意気で、愛嬌のある口の利き方は良家の子女のそれではない。物珍しさから興味を持った僕は初めて淡い恋心を抱くのを感じた。恋なんかという上等なものではなかったかもしれないが、彼女のことを考えるときゅっと胸が締め付けられ、寂しいような気分になった。
 エドワードにダイアナのことを教える気にはなれなかった。何が僕を躊躇わせたのか。当たり前の恥ずかしさ以外の何かであったことは間違いない。
「クリス、この頃悩み事でもある? 元気ないよ」
 エドワードの言葉にも僕は黙って首を振った。
「嘘。クリス、君は嘘をつく時、手を握り締める癖があるんだよ」
 僕はほんの少し後ろめたい気分になった。
 もし、エドワードに彼女を紹介していれば、何か違っていたのだろか。でもそれはifの話でしかない。もう過ぎたことをあれこれ言ってもどうしようもない。
 ある時、エドワードはこんな議題を持ち掛けてきた。
「ねぇクリス。愛して手に入れたいけれど、どうしても手に入らない人がいるとするだろう。君はどうする?」
「そうだなぁ」
 心に浮かんだのはただ一人、ダイアナのことだった。僕は父も母も早くに亡くしていたけれど、叔父夫婦は非常に親切にしてくれた。級友との仲も概ね上手くいっていたし、どうしても手に入らない人というのは今まであまりいなかった。
 彼女には田舎に許婚がいるという。学校を卒業したら帰るのだ、と。片思いのままで終わるだろうことはよくわかっていた。だから安心できたのかもしれない。手の届かないマドンナを遠くで見つめる。それは自分のセンチメンタルに浸るにはちょうど良いシチュエーションだったのだろう。
「僕は、そう……その人の幸せを遠くから願うんじゃないかな」
 本心からか、建前からか、僕は教科書通りの答えを返した。エドワードがそっと目を伏せたのには気付かなかった。
「エドワードは?」
「僕は」
 エドワードの答えは始業ベルにかき消されて、聞き取れなかった。
 五月のことだった。父親からの電報でエドワードが一時帰宅することになった。何の事情も知らされず、ただ急ぎだから早く帰れと言われたのでは誰だって不安になるだろう。日頃から父親を好ましく思っていなかったエドワードも例には漏れず、小柄な躰で大きな鞄をぎゅっと抱える彼を見て、思わず僕は声を掛けた。
「駅まで送るよ」
「大丈夫。一人で行けるよ」
「嘘だね。エドワード、君は嘘をつく時、髪を撫でるだろう」
 はっとした顔でエドワードは髪から手を放した。随分長く撫でていたからか、微かな癖が付いていた。
「……でも、授業は?」
「神学の授業? いいよ、あんなの。この間のレポートの点も悪くなかったし、仮病を使えばいいんだ」
 僕はその日、初めて授業をさぼった。何が僕をあんなに必死にさせたのか。あの時、僕は何かおかしなものに突き動かされていた。僕たちは駅までの道を言葉少なに歩いた。
 飛ぶように時は流れ、長かった夏季試験も終わった。休暇までは少し時間があったけれど、寮生が浮かれるのも仕方ない。何と言ったって、冬以来ようやく家に帰れるのだ。
 窓を開け放したサロンでは皆思い思いのことをしていた。チェスを指し、読書をし、お茶を飲み、両親に手紙を書く者もあった。校庭からはフットボールの歓声が上がり、時折汗を拭きながら水飲み場へ駆けてゆく足音が聞こえた。
 僕はサロンで叔父から届いた手紙を読んでいた。夏には帰ってくるように、と書いてあった。エドワードは用があるから、と朝から街へ出かけていた。
「しかし、エドワードの奴、またトップの成績か」
 隣で声が聞こえた。ウィリアムだ。
「なぁクリス。あいつはどうした? いつも一緒だろう?」
「エドワードなら街へ出ているよ。そろそろ帰ってくる頃だと思うけど」
「シャンゼリゼかい?」
 その言葉に僕はびくりと肩を震わせた。ダイアナのいる店だ。なぜウィリアムが知っているのか。
「有名だぞ、クリス。お前が思っている以上にな。あそこの店員に惚れているんだろ、お前」
「やだな、揶揄うなよ。別に、そんなんじゃない」
「エドワードは知っているのか」
「知っているって……何を」
「お前があそこの店員に惚れていることを、だよ」
 ウィリアムの取り巻きから、ひそひそと笑い声が起こった。僕は扉に背を向けていたから、その時、どうして笑いが起こったのかは分からなかった。
「どうなんだよ」
「知らない……と思う。話していないし、連れて行ったこともないよ。気恥ずかしいじゃないか、そんな子を紹介するなんて」
「ふうん、何だ。じゃ、お前はエドワードじゃなくて、その店員の方に首ったけなんだな。やっぱりエドワードへの想いはその程度か」
 その言葉が、にやにやと意地悪そうな笑いが妙に僕の癇に障った。先に出そうになる手を必死に堪え、僕は叫んだ。
「やめろよ、そんな言い方! エドワードはただの友達だよ。そんな、彼を女か何かみたいに。僕はエドワードにそんな不埒な思いを抱いた覚えはない!」
 僕の後ろで物音がした。ウィリアムは笑い声を上げ、そちらに向かって大声で言った。
「だってさ、お気の毒になぁ。お前の王子様はお前なんかお断りだとさ、エドワード」
「エドワード!」
 はっと振り返った僕の目に、走り去るエドワードの姿が映った。
 すぐに見つけなければと焦ったからだろうか。エドワードはなかなか見つからなかった。あちらこちら探し回った末に僕は部屋に戻った。扉を開けるとアッサムの香りがした。
「エドワード。違うんだ。僕は、そんなつもりじゃ……」
 何も語らない背中に必死に弁解の言葉を語り掛ける。顔も上げられずに俯く僕に影が差した。
「嘘」
 夏の盛りにも拘らずひやりと冷たい掌に包まれて、僕は初めて手をきつく握っていることに気が付いた。
「明日、家へ帰るよ。だから最後にお茶でも飲もうか」
 食卓には見間違えもしない、僕がいつか買ったアップルパイとプディングがあった。
「それ……」
「あぁ。ようやく見つけたよ。素敵な店じゃないか。隠すことなんてないのに、水臭い」
 ティーポットが食卓に運ばれた。
「クリス、君は僕の無二の親友だ。それだけ。それ以上でも、以下でもない。何も気にすることはないよ」
 随分伸びた金髪がエドワードの指に絡みついた。日の光で淡い色に輝いている。
「だから最後に一つだけ、頼み事。いい?」
「え?」
 すっとエドワードの顔が近づいてきたかと思うと、額に柔らかな熱を感じた。
 唇が離れ、その時ようやく僕はエドワードの顔をまともに見た。泣きはらしたその顔は、僕が見た中で最も美しい顔だった。
 夏が過ぎてもエドワードが帰ってくることはなかった。どうしてだかはわからない。カラー先生は何も語らず、ただ僕にエドワードの荷物の整理をするようにと言った。
 エドワードの荷物はまるで帰ってこないことを予期していたかのようにまとめられていた。そのことが僕の胸を余計に締め付けた。
 机を整理していた時、引き出しの奥から僕は封筒を見つけた。
『クリス・オースティンへ』
 表書きには滲んだインクで、ただそれだけが書いてあった。

***

『クリス、君はいつこの手紙を読むだろうか。おそらくは君の前から僕がいなくなった時だろう。どのような別れかは、僕にもわからない。
ただ一つ、僕は君に伝えたい言葉がある。僕と君は、お互いに求め合ったものが違う。僕が求めたものに君は応えることが出来なかったんだね。僕はどうしても手に入らない人が幸せになるのを遠くから見守るなんてこと、どうしても出来ない。だから僕は君の言葉には何も返せなかった。
君が僕に特別優しくしてくれたことは嬉しかった。同時に辛かった。勘違いしてしまいそうになる。幸せな時は長く続かないと僕にはわかっていた。
あの日のキスに偽りはない。いつまでも過ぎ去った夢を追い続けるのはみっともないね。
だから、クリス、さようなら』

Fin.

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