日本哲学の父、西周もADHD(注意障害)とASD(自閉スペクトラム)的であるらしく。

Adhd(注意障害)とASDシリーズ、第一弾。私見では文化的偉業を成した人は基本的にかなりコレ持ってると、思われる。両方持っていてそれをIQで誤魔化すパターン。日本哲学の祖、「哲学」という翻訳語を生み出した西周曰く、

「常に賢くあろうとして、分不相応に大言壮語を吐くこともあった。かの片田舎(島根と山口の県境)にあって、私は周囲から受け入れられないことも多く、みなからの非難を招くこともあった。私の方でもまた世務を潔しとせず、周りとの社交を絶って書物の世界に沈潜する時期もあった」「徂徠学に対する志向を述べた文」

和合主義の日本の田舎で、周りとうまく馴染めないパターン。いろいろ正当化してるけど、ほぼ確実に注意障害の過集中型、自閉もしっかり入ってる人の、典型的現状解釈だと思われる。博学といえば聞こえが良いが、朱子学、国学、洋学をフラフラし、官僚、山縣有朋のブレーン、教育者、著述家など、ひとところに落ち着けない多動性、もうそんな感じがありありと出でいる。

無論時代の要請があったであろう。文明開花の激動期に翻弄されただけで、自分の意思でそうしたわけではない、と解釈することも可能ではある。本人も根性で賢くなろうとしただけ、と言うだろう。にも関わらず、結果として西周はADHDとASDのコンボ的なのである。

心理療法士でもなければ精神科医でもないので、別に診断を下すことが目的ではない。むしろこちらは診断を下される側である。
ここでの目的は、昔の人はどんな文化的達成を成し遂げ、かつコケたのか、を学ぶこと。自分に似た人から自分に役立つ要素を探すこと。その自分の試行錯誤が、誰か他の人の参考になるならハッピーだ、ということである。

そんな西周先生の作り上げた「哲学」という翻訳語、一説には570語にも及ぶ翻訳語の作り手であった、日本哲学の父。西周である。

フィロソヒアの訳語としての、希哲学、これは理を求める中国の逸話か取られている。つまり。この翻訳には、西が自家薬籠中の物としていた朱子学、そこでの中心概念の「天の理」でもって、西洋的な「普遍的な原理」を指示する、という無茶な翻訳になっているのである。うん、和洋折衷、いや和漢折衷としての日本文化。

東洋と西洋の無理矢理な結婚としての「哲学」、そのハイブリッドな概念の「父」であること。西周はそんな存在である。

一言付け加えると、その西洋コンプレックスと権威主義はどうしようもないマウンティング気質を含んでしまう。西は国学者との論争の中でこんな風に言っている。

「自分は幼少の頃より経書や史書を読み覚え、和漢の書物に通暁し、長じてからは西洋の書物を読み習い、オランダ、イギリス、フランス、ドイツの4ヶ国語を理解し、さらに西洋諸国の古典語であるラテン語とギリシャ語、またインドの古語であるサンスクリットなども少しばかりか学ぶことができました」『某士に復するの書』

オランダに3年程度行ったくらいでそこまで語学ができるようになるとは思えないが、まあ西周はそう言うのだ。

というか、これはヤバい。かなりの程度、asd、adhd系のマウンティングである。これはイジワルな時の自分がよくやるタイプの無意識のマウンティングでもある。自己反省。。。はさておき、自閉症と注意障害のコンボが生む、語学マウンティングが「日本哲学」の源流にある、のではないだろうか。日本的、島国的なハイブリッド文化。それも脱島国、国際性を持とうと足掻いた末の謎の日本文化。それは西洋の哲学とは大分視点のズレた、翻訳文化であり、西洋に忠実であろうとして、そのままズレていった日本文化の定番である。

さてこの日本哲学とどう向かいあったものか。

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